「時が止まる」という体験を、私はこの時初めて経験したのだ。



第六話



目の前に広がる光景は、私が想像していたものとはまったく違っていた。
てっきり三人でのお昼かと思っていたらどうやら一人増えていて、瞬きをしても消えないその姿は、黒い髪を風になびかせている越前君その人だった。
言葉も出せず立ち尽くす私に、見かねた彼が口を開く。

「ドア、閉めたら?」
「・・・え?あ・・・うん・・・」

話しかけられたことで我に返り慌てて扉を閉め、ようやく状況確認に頭がまわる。
たちは既にお昼を食べ終わり、ほほえましい寝顔で夢の中にいるようだ。
中身のないパンの袋に空っぽのお弁当箱、そしてペットボトルのジュースが無造作に足元に転がっている。

もしかしたら、桃ちゃんが越前君を誘ったのかもしれない。

「・・・すわ・・・らないんすか?」

突然聞こえた、たどたどしい敬語に思わず吹き出すと彼は口を尖らせた。

「ひどいっスよ・・・」
「ごめんごめん」

少し躊躇い隣に座ると、開封されていないパンが二つ転がっているのが見えた。
私の視線を感じたのか、彼はすぐに袋を開け何も言わず中身のコロッケパンを頬張った。

「・・・もしかして、私が来るまで待っててくれたの・・・?」
「別に」

短く無愛想な返事は否定をしていない。

職員室に行く前、には先に食べててと言ったのだけれど、それは桃ちゃん達にも伝わっているはずだ。
それでも手をつけなかったのは、彼自身がそうしたいと思ったからだろう。
そんな彼の気持ちが嬉しくて笑うと越前君がなぜか驚いた顔をした。

「? どうしたの?」
「いや・・・。笑った顔、面と向かって初めて見たんで・・・」

急に居心地が悪くなった私は、下を向いてお弁当箱を広げた。
いつも同じような視線を向けていることに、彼はとっくに気付いていたのかもしれない。
人の強い心を羨ましい、欲しいと思う、そんな子供じみた自分が急に恥ずかしくなった。

私が何も言わないからか彼も話すこともなく、結局二人で黙々と食事を続けた。

昨日のように二人並んで歩く帰り道は嫌だと思っていたのに、寝ている達のお陰で同じような空間になってしまった。
だけど、昨日とは何かが違う。会話が続いたのだ。たった一日で、すごい進歩かもしれない。

そのせいか、張り詰めていた気持ちは幾分穏やかになった気がする。
頬を撫でる風を感じながら、私は甘い卵焼きを口に放り込んだ。


気持ちのいい青空の下でのお昼は、時間に正確なチャイムの音で急に慌しいものとなる。
結局食べきれなかったお弁当箱をしまい、すぐ近くで眠りこけている二人を起こそうと立ち上がった。

「急がなきゃ、授業始まっちゃう!」

とっくにパンを食べ終えていた越前君は、まったく動く素振りもなくファンタを飲んでいる。

「行こ? 達起こさないと・・・」
「やだ」
「やだ、じゃないでしょー。ちゃんと授業でなきゃダメだよ!」

軽く窘めたその時彼の目つきが急に変わり、挑戦的な瞳になった。よく、テニスコートで見る表情だ。
立ち上がって見下ろしていたはずなのに、がらりと変わったその場の空気と威圧感に私は動けなくなってしまった。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。

「それじゃあ、先輩はちゃんと出てるんスか?美術の授業」

思いがけない問いかけに、当然返答できるはずもなかった。
話したのはだろうけれど、きっと二人に問い詰められたのかもしれない。
それなら、桃ちゃんも話を聞いているはずだ。

無視も誤魔化しも効かない、越前君の無言の圧力に私は力をなくして座り込んだ。

「・・・情けないでしょ、私・・・」
「正直、俺にはよく分かんないけど・・・嫌いなら、しょーがないんじゃないんすか?」
「ううん、嫌いじゃないよ」

即答すると、越前君は眉根を寄せた。

「美術は嫌いじゃないよ。むしろ好きな方。いつも描きたいと思っているくらい」
「・・・・」
「じゃあなんで欠席するのかって?・・・内緒!」
「・・・別に、知りたくないし」
「え〜顔にかいてあるよ?気になる!って」

私の不自然な明るい声が、空に吸い込まれるように消えていった。
笑いたいわけではないのに脳が笑顔をつくれと命令しているのだ。そうしないと、涙がでそうだから。

その時何を思ったのか、越前君がいきなり仰向けに寝転がった。
組んだ両手を頭の下に敷き、肩膝を立てた彼に寝るのと問いかけると、彼は返事の変わりにそっと目を閉じる。
泣き顔を、見ないようにしてくれているのだろうか。

「・・・ありがとう」

やっぱり我慢は出来なかった。
お礼の言葉を述べると同時に、重力に従って一つ二つ雫が落ちる。
青空を見上げて流す涙は、とても気持ちがいいものだった。

皆で授業をサボった日、それは越前君のさり気ない優しさに触れた日でもある。
たまには、こんな日もいいね。


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