攻めろ。
自分がやるべきことは、もう分かっている。
第二十八話
水飲み場の縁に帽子を置いて、リョーマは顔を洗った。
夏本番とまではいかないものの、やはり気温が高い中で行う練習ではいつも以上に汗をかく。
頬に伝う汗を洗い流しついでに喉も潤して垂れる水滴を袖で拭うと、ちょうどよく吹いた風が体の余計な熱を奪っていってくれた。
濡れた前髪を乾かすように無造作に手で掻き分ける。
この気温と風なら、あっという間に乾くだろう。
そう思い帽子を手にすると、目の端に見えた人影で不二が傍にいることにリョーマはようやく気付いた。
「・・・何スか、不二先輩」
溜息を吐きながらも、リョーマは嫌な顔をすることなく素直な目線を向けるといつもの笑顔が返ってきた。
先日、が青学に行ったことを教えてくれたのは彼だ。
わざわざ自分の家にまで来て伝えるなどお節介なところはあるが、後輩である自分達のことを気にかけてくれている。
心配しているのだということも分かってはいた。
一時うんざりしたこともあったが、結果的には万事解決。礼を言うつもりはないけれど、話を聞くくらいなら。
そんな傲慢ともいえるリョーマの態度も、不二はよく理解していた。
「どう?調子は」
「まぁまぁっスね」
なんの調子だと尋ねることもせず、あくまでもテニスのこととして受け止めておこう。
そんな考えが見える当たり障りのない返答に不二は、そうと一言だけ返した。
「この間、図書室で一緒に勉強したんだって?」
「・・・見てたんスか」
「違うよ。さんから聞いたんだ」
の存在をストレートに会話の中に含ませると、リョーマは一瞬言葉に詰まったもののあっさりと認めた。
不二がそれ以上何も言わないでいると、先輩って、と今度はリョーマが口を開く。
「あの人、お喋りだよね」
小さな笑い声を返した不二は、隣に並び同じように蛇口から水を捻り出し喉を潤した。
キュ、と音をたてて水を止めると、そういえばと思い出したように顔をあげる。
「今度の関東大会、さんとさんにも応援に来てもらったら?」
の存在が、リョーマのプレーに多少なりとも影響を与えるということが分かったのだ。
素直になり始めた今のリョーマにとって、彼女がいるだけで力になることは間違いないだろう。
それにきっと、自身も喜ぶに違いない。
安易な考えではあるが特に嫌がる理由もないだろうと思っていた不二は、渋る相手に眉を上げる。
「さん達に、来てほしくないのかい?」
「そうじゃないっス」
間髪入れず否定はしたものの、あまり乗り気ではないようだ。
彼と彼女の間には、まだ自分の知らない確執が残っているのだろうか。
湿り気の残る前髪を風に揺らしながら、リョーマは空を仰ぐ。
先日を追って青学へと走ったときは、もっと強い風が吹いていた。
あの時の自分は、謝ることを優先してもう一つのことを後回しにした。それは自分の気持ちを認めることだ。
謝ってから気持ちと向き合えばいいと思っていたのに、いざ彼女と仲直りをすると、それまで凝り固まっていた意地が嘘のように溶けて消えていった。
今までそっぽを向いていたはずの壁を、無意識のうちに通り越していたのだ。
既に気持ちは決まっている。自覚もしている。
「不二先輩」
「?」
顔を上げ不二の瞳を真っ直ぐ見つめるリョーマの頭の中に、数日前の出来事が浮かんだ。
古典の勉強を教えてもらうという目的で、その日ミーティングを終えたリョーマは学校の図書室へと向かっていた。
室内に入ると、机の上には彼女のカバンと思わしきものがポツンと置いてあるが持ち主の姿は見当たらない。
本棚の間を覗き込んでその姿を探していたリョーマは、何気なく目を向けた本と本の隙間から見慣れた後ろ姿を見つけ反対側に回ろうとした。
その直後、一人の男子生徒の声に足を止め思わず耳をそばだてた。
彼女よりも背が高く顔は見えなかったが、その声には聞き覚えがある。
テニス部に興味はあるのかとに聞いた男の子だ。
苦い気持ちが蘇ってきて、リョーマは机に戻るか一瞬決めかねた。だが聞こえてくる会話は止まることがない。
おまけになぜか自分の名前が出てきたことで、リョーマはいよいよ動けなくなった。
耳に入ってくる話し声の最中、仲がいい、という言葉が聞こえてきて、心なしか自分の鼓動が早くなる。
周りから見ると、自分達はそんな風に見えるらしい。
『越前君と仲いいから、私』
次いで聞こえてきた彼女の台詞を頭の中で反芻していると、本棚を挟んだ男子生徒がふいに体の向きをこちらに変えた。
それを見た瞬間弾かれるようにその場を離れたリョーマは、早足で図書室を出る。
上がった息を整え気持ちを抑えるように深く溜息を吐くと、頭の中で引っかかった言葉に眉を寄せた。
「仲がいい」
嫌な言葉ではないはずなのに、どこか納得いかないのはなぜだろうか。
別に言った彼女に怒っているわけではなく、自分の中で綺麗に消化することができなかった。
その場で少し考えたがやはりよく分からなかったリョーマは、仕方なく再び図書室内に入ったのだった。
だけど、今なら分かる。
不二から目を逸らさず試合の時に見せるような挑発的な笑みを浮かべ、リョーマははっきりとこう言った。
「関東大会に、先輩は呼ばない。余計な邪魔がつくかもしれないからね」
その言葉の意味に気付いた相手は、驚いて目を見開く。
「邪魔するのは、自分の感情だけで充分っス」
そう言い放つと、縁においていた帽子を深く被り直しリョーマはコートに向かって歩き出した。
その後姿を呆気にとられたように見つめていた不二の口は、次第に笑みを深くしついには声を出して笑った。
「ははっ・・・越前のやつ、壁を超えた途端に猛ダッシュか。まったく、彼らしいね」
恐らく、自分の行動は彼にとって少々(かなり?)お節介なところもあっただろう。
それでもこうして壁を乗り越え、自分の気持ちと正面から向き合うことが出来たならあとは二人次第だ。
一人になった水飲み場で、不二は青空に向かって大きく伸びをした。
季節は確実に夏へ進んでいる。だが二人に春が訪れるのは、きっともうすぐに違いないなと不二は思った。
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