第二十七話



リョーマ君に古典を教える約束をしてから、その日は意外と早く訪れた。

ある日放課後の練習がミーティングだけだという情報を得た彼はすぐに教えてくれて、教室掃除のあと私は図書室へ直行した。
リョーマ君とテスト勉強をすることをに伝えると、彼女は何を思ったのか、図書室に人が入らないように見張ろうかと言い出したので
丁重にお断りをしておいた。
やっぱりには、この気持ちはお見通しらしい。


あまり馴染みのない図書室に入ると、独特の匂いが鼻を通る。
それは決して嫌な匂いではないけれど、雰囲気も相まって慣れるのにほんの少し時間がかかった。

数人の生徒は立って本を探し、机に座っている二つのグループがノートを机に広げ勉強をしている。
静か過ぎる空気ではないので、これなら私達も声を抑えて会話をすれば大丈夫だろう。

四人掛けの席に座ると、私はカバンの中から一年生の時に使っていた古典の教科書とノートを取り出した。
受験やら何やらで使えるかもしれないと、とっておいて良かった。
つい最近まで使用していたそれらは、新品同様とは言いがたいものの保存状態がいいのか比較的綺麗だった。
パラパラとめくり変な落書きをしていないか確かめた後、古典の辞書がないことに気付き私は席を立った。

本棚についている小さな案内棚を見てそれらしき棚を見つけると、指先で背表紙を追いながら辞書を探していく。

(古典・・・古典・・・あ、これかな)

見つけた一冊を取り出し適当にページを開くと、まるで小説のような小さい文字が目に入りすぐにその本を閉じた。
もう少し見やすくて初心者にも分かりやすいものはないのだろうか。
そんなに数はないし一つ一つ見てみようかと思った矢先、ふいに隣から声をかけられ私は作業を中断した。

「よっ、
「あれ・・・委員長?」

声をかけたのは、あの同じクラスの風紀委員クンだった。
実は二年でありながら風紀委員長であることをつい最近知り、今ではこの呼び名が私の中で定着している。
彼も、このあだ名について特に嫌がることはなかった。

「珍しいじゃん、図書室いるなんて」

そう言う彼の腕の中には、分厚い歴史書が収まっている。
持って帰るにはかなり重そうだ。

「うん、人と待ち合わせ。勉強するの」
「へぇ。猫目・・・は、さっき帰ってるの見たけど?」
「一年生の子、なの」

リョーマ君は名前が知られている一年だから、ひょっとしたら委員長も知っているかもしれない。
でも以前、テニス部に関する興味を彼から問われたこともあり、その名前を出すことを少しためらった。
だけど委員長は、ああ、と思い出したように声を上げる。

「ひょっとしてテニス部の?なんだっけ・・・えち・・・ご?」
「・・・越前くん」
「あ、そいつだそいつだ。そっか、やっぱり仲いいんだな」

急に、体中の熱が顔に集まった気がした。
確認してもきっと赤い顔をしている、それ以上に彼の言葉が気になった。

「や、やっぱりって・・・な、なんで?」
「え、だって一緒に帰ってるとこ見たことあるし。ほら、委員の仕事で遅くなった日とかにさ」

こそこそ人目を気にしながら歩いているわけではないので、誰かに見られることは百も承知だ。
とはいえ仲がよさそうに見えると言われると、恋心が生まれた今となっては、ただただ恥ずかしい。

何も言えず顔を隠すように俯いていると、彼は申し訳なさそうな声を発した。

「あー・・・前、変なこと言ってごめんな」
「・・・え?」
「ほら、あのさぁ・・・男子テニス部に興味があるとかないとか言っちゃって」
「あ・・・、う、ううん」
「あの時は、に無理やり連れ回されてるのかと思っててさ・・・仲いいやつがいりゃあ、そりゃ気になって見に行くよな、うん」

恐らく彼は、友情ありきでテニス部を見に行っていると思っているのだろう。
それが恋情であることを、私自身は最近知ったのだけれど。
一人納得して頷いている彼に閉口しているわけにもいかず、私は曖昧に笑った。

「そ、そうなの。越前君と仲いいから、私」

咄嗟に言ってしまったけれど、言葉にすると余計恥ずかしい。

この返答で満足したのか、委員長は思い出したように私の前にある本棚に興味を移した。
ようやく話題が変わったことにホッとしつつ、本来の用事を思い出し私は急いで数冊の辞書を手に取った。
解りやすい古典辞書を探していると彼に言うと、委員長は背表紙の列を少し覗き込んでその中の一冊を引き抜いた。

「これ、俺が一年の時に使ってたよ。すげー使いやすかった」

手渡されたクリーム色の表紙には、誰でも分かる、なんて常套文句が印刷されている。
数ページを軽く読んでみると、図入りで確かに読みやすく、基礎についても丁寧に解説してあった。

「ありがとう!よかった、見つかって」
「おう。んじゃ、俺行くわー」

手を振った彼は、本棚の角を曲がるとすぐに見えなくなった。
どうやらあの分厚い歴史書は持って帰るようだ。


探し求めていた本とともに席に戻り、手にしたばかりのそれを机に置く。
図書室の窓から見える青空をぼんやり眺め教科書を読み飛ばしていると、隣のイスが控えめに動いた。

「・・・あ、リョーマ君」
「お待たせ」
「ほとんど待ってないよ。ミーティング、早く終わったの?」

カバンから筆記具やノートを取り出しながら、たまに早く終わる、と小さい声が返ってきた。
そうなんだ、と同じように声を抑えて相槌をうつと、さっそくリョーマ君が教科書を開き分からない箇所をシャーペンで示した。

「ここ、教えてほしいんだけど」

そう言って覗き込むような彼の表情に、私は少し眩暈がした。
上目遣いに負けているようでは先輩としての威厳が、云々思いつつもはなから威厳なんてものは私にはないだろう。
はい、と蚊の鳴くような返事しか出なくても、この時のリョーマ君には、ほとんど聞こえていなかった。



先程まで真新しかったリョーマ君の教科書は、シャーペンの薄い線が走り赤ペンの丸や矢印がついていたりとだいぶ賑やかになった。
眉根を寄せ首を傾げていた彼も、少し要領を得てきたようで私から言わなくても自分から辞書を広げ調べ始めている。
ページをめくる手元を眺めながら、いい辞書が見つかって本当によかったと安堵した。
私も説明がうまいわけではなので、だいぶ助かっているのだ。

ふと彼の手が止まり、まただ、と私は思った。

シャーペンを手にしてからというもの度々動きが止まり、何かを考えているような表情を浮かべるリョーマ君。
もちろん今は勉強中なのだからと最初は気にしていなかった私も、問題を解いた後も同じような顔をしていることに段々と気付き始めた。

物思いに耽っている。

「・・・リョーマ君、大丈夫?」

控えめに声をかけると彼はハッと顔をあげ、何でもないと言って再び辞書に目を通した。
指先で文字を追い目当ての単語を見つけると、その意味を教科書の端に小さく書き留める。
その様子は至って普通で、しつこく聞くのも憚られたので私も何事もなかったように振舞った。

きっと、連日の部活で疲れが溜まっているのかもしれない。
関東大会までもうすぐだと言っていたし、強豪を相手にするということで精神的な重圧もあるはずだ。
・・・そんなにプレッシャーを感じるような子には見えないけれど。


壁掛け時計を見るとそろそろ五時になろうとしている。
いつの間にか、図書室には私達のほかに一グループが残っているだけだ。

もう帰ろうかと聞いてみると、やっぱりどこかぼんやりしているリョーマ君が頷きながら片づけを始め、辞書を手に立ち上がった。

「これ、返してくる」
「あ、ありがとう。・・・?」

この時小さな違和感に気付き、私は首を傾げた。

彼はなぜ、この本が図書室のものだと知っているのだろう。
確かに最後のページには貸し出しカードが付いているし、裏表紙には学校のものだというシールか何かが貼ってあるはずだ。
でも勉強中、一度もそんなところは見ていなかった。
私の持ち物であるかどうかも、もちろん聞かれていない。

リョーマ君は本の置き場所も大体分かっているらしく、席に戻ってくるのも早かった。
ひょっとしたら一度借りたことがあるのかもしれない。
そう思い聞いてみると、図書室で本を借りたことがないと否定されてしまった。

「そうなの?でも、図書室のだってよく分かったね」

何気なく言った私の言葉に、彼はなぜか声を詰まらせてしまう。
たっぷり一呼吸置いて、カバンに筆記具をしまいながらリョーマ君は呟いた。

「・・・俺、図書委員だから」

なんとなく分かる、そう答えた直後、この日最後のチャイムが学校中に鳴り響いた。


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