日常が色を足して舞い戻ってきた。
第二十五話
整備されたばかりのテニスコートは夕暮れのオレンジで染まっている。
先程まで汗を流していたテニス部員はもちろんのこと、周囲のグラウンドにも人っ子一人おらず、テニス部見学の女の子達も
いつの間にか見当たらなくなり日暮れの気配が漂っていた。
明かりがついている部室の中からは桃ちゃんの楽しそうな笑い声が響いてくる。
それを耳の奥で聞きながら、私は先程まで見ていた光景を思い出していた。
久しぶりに見学をしたテニス部の練習風景で見たものは、以前にも増して気合の入った部員達の姿だった。
さすが大会が近いというだけあり、顧問の竜崎先生の喝は至る所で聞こえ、部員同士の打ち合いもまるで試合さながらの気迫だ。
その中で私の目を一番引き付けたのは、それはやっぱりリョーマ君のプレーだった。
赤いラケットと共に彼がコートに入った瞬間、周囲の声も風の音でさえ遮断されてしまったかのように私の世界からは音が消えた。
強い瞳で相手を見据え力強くグリップを握り、一つのボールを追うリョーマ君の姿。
久しく目にしていなかったその姿は以前よりももっとずっと、テニスへの気持ちに溢れていた。
見つめるうちにだんだん目頭が熱くなってきて困ったけど、こうしてまたここに来ることができて本当によかった。
残念ながら、は今日はここにはいない。習い事で早く帰宅したため一緒に見ることはできなかったのだ。
それでも仲直りしたことを話した時、よかったねと彼女は心底ホッとした笑顔を見せてくれた。
ただ彼への恋情については口にしていないけれど、勘のいいはとっくに気付いているだろう。
今はまだ気恥ずかしくて打ち明けることはできないけれど、もう少し日が経てば落ち着いて話せるかもしれない。
あくまで「かもしれない」だけれど。
明日こそは、と一緒に見れるといいな。そんなことを思いながら、私は目の前で流れる練習風景を見つめていたのだった。
しばらくすると部室の扉が開き、制服に身を包んだリョーマ君が現れた。
以前の私なら駆け寄り一緒に帰るところだけれど、やはり少し臆病な心が足を重くさせている。一歩が踏み出せない。
果たして自分は、彼の隣を歩いてもいいのだろうか。
やはり前のようには戻れないのかもしれない、そう考えた矢先、私の姿を捉えたリョーマ君がまっすぐこちらに向かってきた。
「何してんの」
「あ・・・お疲れさま、です」
考えていることが面に出ないよう急いで笑顔を取り繕うと、彼はポケットに片手を突っ込んだままテニスバッグを持ち直した。
「帰るよ」
そう言って踵を返したリョーマ君の背中を、私はぽかんと見つめた。
変わらない彼の振る舞いに胸が熱くなる。心のどこかにあった小さな不安の渦が、たった一言でみるみる消えていった。
それは、以前と同じ関係に戻ることができたのだと本当に実感した瞬間だった。
歩き出した後を追おうとしたとき、脳裏にある人物が浮かび上がりハッとして私は彼の腕を引き歩みを止めた。
強制的に足を止められたことに驚きつつも、彼は嫌な顔ひとつせず振り向いた。
「な、何?」
「不二先輩、まだ中にいる!?」
突然慌てだした私に面食らいながらも、ワンテンポ遅れて頷く。
「あの、ちょっとだけ待っててほしいの。どうしても言いたいことがあって」
こうしてリョーマ君と話せるようになったのは、私一人の力じゃない。
だけでなく、不二先輩にも心配をかけてしまったのだ、きちんとお礼の言葉を伝えなくてはいけない。
「・・・まぁ、いいけど」
「ありがとう!」
訝しげな表情のリョーマ君をその場に残し、私は急いで部室へ走った。
扉の前に来るとそこは相変わらず楽しげな笑い声が漏れ出していて、ノックをしようと上げた手が一瞬止まる。
そうだ、私はこの扉をノックしたことがない。
あまりよく知らない人が出てきたらどうしよう、そんな考えが頭を過ぎるけれど人を待たせているため躊躇している時間はない。
意を決し軽く二回叩くと、一呼吸置いてから控えめに扉が開いた。
「はい?」
顔を出したのは大石先輩だった。
私を見ると目元を緩ませ、どうしたのと優しい表情を見せてくれた。
急に肩の力が抜けて、不二先輩いますかと小さな声で尋ねるとにこりと笑って頷いた。
「呼んでくるから待ってて。さん・・・だよね?」
いつの間にやら顔だけでなく、名前まで覚えられていたようだ。
気恥ずかしくなり控えめに答えると、大石先輩はベンチに座っている不二先輩に手招きをした。
私がいることに気付き立ち上がった先輩は、既に着替えを終えカバンの中身を整理しているようだった。
「それじゃあ」
「あ、ありがとうございます」
大石先輩と入れ替わる形でやってきた不二先輩は、私と一緒に外に出て部室の扉を閉めた。
恐らく中の人達に聞かれないため。つまり、話の内容がすでに分かっているのだろう。
「お疲れさまでした、不二先輩」
「さんもお疲れさま。今日はさんいなかったね」
「はい、習い事があるので・・・」
ここから少し離れた場所では、リョーマ君が立っているのが見える。
こちらに気付いて一度顔を向けたけれど、不二先輩が手を上げると彼はそっぽを向いてしまった。
「越前と、仲直りしたみたいだね」
と同じようにホッとした笑顔の先輩に、私は頭を下げた。
「はい。本当に、ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことなんて、何もしてないよ」
「そんなことないです。話を聞いてくれて・・・私、ずいぶん心が軽くなったんです」
内に溜めていたものを外に吐き出したことで心に余裕ができ、冷静な気持ちを持つ自分が生まれてくれた。
それは解決の糸口にはならないことかもしれないけど、精神的な負担がない分、霞んでいた思考がクリアになるものだ。
ひょっとしたらそのクリアな思考から、あの夢が出てきたのかもしれない。
「話くらい、いくらでも聞くよ。同じ部に入っていなくても、可愛い後輩であることに違いないんだから」
ごく自然にでてきたその言葉は、胸の中にすとんと落ちて暖かい波紋を広げてくれた。
テニス部には、否、この青学には、本当に素晴らしい人達がいるのだとつくづく実感する。
優しく微笑んだ不二先輩に、私はもう一度お礼の言葉を述べた。
その時目の端に映ったリョーマ君が、じっとこちらを見ていることに私はようやく気付いた。
急かすようなその視線に、同じように気付いた先輩が苦笑して小さく手を上げる。
「せっかちだなぁ、越前は」
眉根を寄せつつも、その声色はあくまで優しい。リョーマ君も、可愛い後輩に違いないのだ。
五分と話していないけれど、機嫌を損ねてしまう前にと私は彼の元へ戻ることにした。
すぐ傍の部室からは、笑い声はいつの間にか消えていて代わりに部長と思わしき声が漏れ出している。
私は不二先輩に向かい、再び軽く頭を下げた。
「それじゃあ、失礼します」
「うん。これからも越前と仲良くね」
「・・・は、はい」
仲直りをした後にかける言葉としては妥当なはずなのに、今の私にはひどく気恥ずかしいものに思えた。
恐らく、自分の気持ちに気付いていなければ、恥ずかしいと思うこともないのだろうが。
顔中に集まる熱を悟られないよう踵を返し、急いでリョーマ君の元へと小走りで向かった。
戻ってきた私の顔を覗き込んだ彼は案の定、何を話していたんだと怪訝そうに眉を寄せている。
それに何でもないと繰り返しながら、夕闇迫るグラウンドを後にした。
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