第二十四話



誰もいない教室は、独特のにおいがこもり外の音を遮断していてとても静かだった。
リョーマ君が窓を一つ開けると、新鮮な空気と微かな音が教室に入り込んでくる。
音楽室から聞こえる吹奏楽部の演奏だろうか、休日に部活とは、大会が近いのかもしれない。

久しぶりにリョーマ君と会話をして泣き出してしまった私に慌てたのか、彼はいつもの帽子を被せてくれ、
泣き顔を隠したままこの教室まで連れてきてくれた。
あの、前の遊園地のときのように、片手を繋いで。

知らない組の教室で、知らない人の席に座ってうつむき帽子をおさえたまま、私は動くことができずにいた。

心臓がうるさい。とにかくうるさいのだ。
長距離走を走ったわけでもないのに激しい鼓動はとまらず、何かを訴えるように跳ね上がる。
彼に聞こえるわけがないとは思っていても、すん、と鼻を鳴らして飛び跳ねる音を誤魔化した。

イスが床を引きずる音がして、リョーマ君が前の席に座ったのが分かった。
視線を感じるけれど、恥ずかしくて顔をあげることができない。

自分の心の中にリョーマ君が存在していることに気付いてしまった私は、人生で初めて抱く感情に戸惑っていた。
その気持ちを何というか、さすがに分かるけれど、一度意識しだしたら目を背くこともできないなんて。
何もこんな時に自覚しなくてもいいんじゃないかなと、自分自身に拗ねたくなる。

彼の顔がまともに見れずうつむいたままでいると、唯一の隔たりである帽子がすっぽりと取られてしまった。

「あっ」
「いつまで被ってんの」

リョーマ君は取り上げた帽子をくるくると弄び、そしてそれは持ち主の頭に納まった。
優しい目を向けられても、やっぱり直視できず下を向いて目尻の涙をぬぐう。

屋上でも遊園地でも、私は彼の前で泣いてばかりいる。
人前で泣くことは好きじゃないのに、どうして素直に涙がでてしまうんだろう。

「ナキムシ」

からかうような言葉、それなのにとても優しい声で、余計に胸に響いてしまうなんて。

「・・・・い、じわる」

精一杯の反撃にも、リョーマ君はどうもと言って笑った。
あの挑発的な笑みが、私の胸の熱をさらにあげていく。

「ほめてないのに・・・」
「ふーん、残念」

私が答えて、彼も答える。
そんな当たり前の会話のキャッチボールができている。
またこみ上げそうになるものを抑え、彼への感情を意識しないように私は話題を変えた。

「・・・リョーマ君、今日は部活午後からだよね?来る途中不二先輩に会って、聞いたよ」

壁にかかっている大きな時計はちょうど十時半を指していて、部活が始まるまではまだだいぶある。
誰かと、ひょっとしたら桃ちゃんと打ちあう約束でもしたのだろうか?

不二先輩か、そうばつが悪そうに彼は呟く。

「俺はちょっと早く目が覚めて・・・・やることもないから、来ただけ」
「そうなの?でも・・・」

さっき会った時、息をきらしてずいぶん急いで来たような感じだったけど・・・そう思ったが口にはしなかった。
また余計なことを言ったら、彼の気に障るかもしれない。
そんな考えが、私の口にブレーキをかけた。

「それより、なんで先輩が学校に?部活ってわけでもないでしょ」
「えっ、私?私は・・・」

まさかオウム返しに質問が返ってくるとは思わず、とっさに頭の中で言い訳を考える。
夢にでてきたテニスコートをこの目で見たくなった、などとはさすがに言えないまま曖昧に笑って、散歩でと答えれば案の定
疑わしげな目を向けられた。

「散歩ね・・・制服着て?」
「う、うん。青学まで、お散歩なの」
「・・・休日くらい、違うとこ行けば?」
「そ、そうだよねー」

きっとリョーマ君は、取り繕いの言い訳なんて見破っている。
一学年とはいえ年下君に言い負かされて、穴があったら入りたいくらい恥ずかしかった。

それでもいくらか話をしていると、心臓の鼓動もだいぶ落ち着いてきた。
涙はもう乾いてる、彼の目もまっすぐ見れる。

ふと、机の上に置かれたテニスバッグが目に入った。
またと一緒に、リョーマ君のテニスが見れると思うと嬉しくてしょうがない。
今まではただ見ているだけだったけれど、テニス雑誌でも買ってルールや技を理解してみるのもいいかもしれない。

「それにしても、大変だね。休日なのに部活があるなんて・・・」
「・・・まぁ、もうすぐ大会だし」
「あ、大会かぁ・・・」

しばらくテニスコートから離れていたせいか、そのあたりの情報はとんと入ってこなかった。
恐らくならすでに知っているかもしれない。
でもリョーマ君と話さなくなったことを知っていたは、きっと私に遠慮してテニス部の話題を避けていたんだ。

何かを言い出そうとして口を閉じた私を見て、リョーマ君は困ったように頬をかいた。

「あのさ・・・別に、聞きたいことあるなら聞いていいよ」
「えっ」
「さっきも言ったけど、関係ないなんて思ってないし・・・ちゃんと、答えるから」

そう言いながらもそっぽを向いた彼の顔は、ほんのりと赤くなっている。
不器用ながらも見せてくれる優しさに、私は微笑みながらありがとうと伝えた。


久しぶりに聞いたテニス部の動向は、とても期待の高まる内容だった。
リョーマ君の言っている大会というのは関東大会というもので、初日から強い学校と当たるのだという。
すでに対戦相手の顔を見たという彼に詳しく聞いてみると、猿山の大将のような奴がいたという言葉に笑ってしまった。

関東大会の後は全国大会があり、全国優勝を目指して皆一丸となりハードな練習をこなしているようだ。
だからこうして、今日も休日練習があるんだろう。

「そっかぁ、対戦相手もどんどん強くなるんだね。・・・試合、ちょっと見てみたいな」

部員同士の試合は見たことがあるけれど、他校となるとその場の雰囲気もまた違ったものがあるのだろう。
でもリョーマ君は、やめた方がいいと首を横に振った。

「え、どうして?」
「その・・・・変なやつ、多いから」
「変なやつ?」

聞き間違いかと思ったけれど、どうやら大真面目に言っているようだ。
彼は強くうなずき、変なやつ、ともう一度繰り返した。

「大会には他校の奴らがたくさん来るけど、そんなに感じのいい奴らだけじゃないし・・・」

男ばっかりだから絡まれるよ、と言ったその表情は、本当に心配してくれているようだった。
そんな彼の気持ちが嬉しくて、私は素直に分かったと頷いた。

「・・・リョーマ君?」

途端に彼の表情が固まり、席を立ったかと思うと開け放った窓から外を覗きだした。
そういえば先程から、聞き慣れた音が耳に入り込んでいる。
私も同じように外を見てみると、誰もいないはずのテニスコートで一人ボールを打っている不二先輩が目に入った。

相手もいないのに音が響いているのは、ネットを挟み対峙しているカゴに狙い撃ちし、見事その中にボールを収めているからだった。
大会が近いから、不二先輩もリョーマ君と同じように早く来て練習しているのだろうか。
隣にいる彼は黙ったまま、なぜか苦虫を踏み潰したような顔をしていた。

「・・・俺、そろそろ行く」

大きな溜息を吐き出しながら、リョーマ君は机の上にあるテニスバッグに手を伸ばした。

先輩、どうすんの?」
「私は・・・」

当初の目的であるコートを見れて、会いたいと思っていた彼に会えて仲直りまでできた。
またお話をして、テニスも見に行けるようになった。これ以上何かを望んだら、なんだかバチが当たりそうな気がする。

「私は、このまま帰ろっかな」
「ん、分かった」

座っていたイスと机の位置を直して、私たちは教室を後にした。
吹奏楽部の音楽は既に消え廊下には沈黙が流れていたけれど、それはとても居心地のいいものだった。
私と同じような心地よさを、彼にも感じていてほしい。
そんなことをふと思う。

昇降口で靴を履き替えてリョーマ君と向き合うと、まだ何か言いたそうな彼の表情に気付き私は首をかしげた。

「どうしたの?」
「・・・今日、会えてよかった」

その言葉は、私の胸をじんわりと熱くさせた。

青学に来てテニスコートを見ている間は、会わなくて済んだとホッとしていた自分がいたけれど。
こうしてまたお話ができるようになったのも、すべては今朝見た夢のお陰かもしれない。
あの夢を見なければ、たぶん青学へ足を運ぶことはなかっただろう。

「また学校でね、リョーマ君」

テニスコートへ向かうその背中に言葉をかけると、トレードマークの帽子を持ち上げて振り返り彼はこう言った。

「また、昼休みに」


なくなったはずの日常が戻ってくる。
嬉しくて嬉しくて、私は突き抜けるような青空を見上げた。晴れ晴れとした気持ちに負けないくらいの、青く澄んだ空だ。眩しい。

リョーマ君への恋心を、私はこの日、初めて自覚したのだった。



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この連載は原作通りというわけではありませんが、時間の流れの目安として関東大会が近いことを表記しました
今回のような表現が、今後ちょこちょこ出てくるかもしれません ・・・でてこないかもしれませんが^^;