きっと、あれは正夢だったんだ。



第二十三話



休日の青学に初めて足を踏み入れた私は、、誰かに怒られないかと内心ドキドキしていた。
きちんと制服を着ているし他校の生徒でもないのだから、大丈夫だとは思っていても周りを伺いながら歩いてしまう。

校舎にもグラウンドにも、人影はない。

てっきり静かだと思っていた学校は体育館から運動部の掛け声が響いていて、遠くの教室からは吹奏楽部の音楽が聞こえてくる。
人の姿がないのに音が聞こえるとそれがまるでBGMのようで、緊張していた体から徐々に落ち着きを取り戻してくれた。
校庭には誰もおらず、遠くに見えるテニスコートも当然無人だった。
唯静かにそこにあるコートまで、私はゆっくりと歩いていく。

からテニス部見学に誘われるまで、同じ学校内にいながら殆ど目にすることのなかった部活。
初めてリョーマ君を見た時、今までそっぽを向いていた自分の心の弱さをありありと突きつけられた気がした。
忘れていたかったのに、有無を言えないままその弱さと向き合うことになってしまったのだ。
だけどその一番のきっかけであるリョーマ君に、私は救われた。

できることならもう一度、彼と話がしたい。
どんなに短く無愛想でも、言葉を交わしたかった。


コートの近くにある木陰に入ると、暑さで火照った体から風が熱を奪い去っていった。
目の前に広がる、フェンスに囲まれたその場所はきちんと綺麗に整備されていて、鮮やかな緑を輝かせている。
こうして眺めているだけで、記憶が次々と頭に流れ出して止まらない。

レギュラージャージを着たリョーマ君は、いい意味でとても目立っていた。
クールで攻撃的なスタイルと生意気な口ぶり、でも先輩にも可愛がられていて同じ一年の子には慕われている。
彼は本当は、とても優しいのだ。
何より、私の涙を黙って受け止めてくれた。屋上でも遊園地でも、ただ静かに受け止めてくれた。

「・・・・」

そんな彼の優しさに、私は甘えていた。
最初は苦手意識を持っていたというのに、今となっては甘えるだなんて、
私のこういうところがリョーマ君の気に障ったのかもしれない。

少し風が強くなり、葉っぱの擦れる音が強くなった。
もう戻ろうかと元来た道に目を向けると、数メートル離れた先に人影が立っていることに気が付いた。
よく見知ったそのシルエットに、私は目を奪われる。

「うそ・・・」

そこには、リョーマ君がいた。
何度瞬きをしても消えないその姿は、向こうも私に気付いているはずなのに徐々にこちらに近づいてくる。
手に嫌な汗をかき始めても、体中が緊張してまったく動けなくなってしまった。

今日の部活は、午後からではなかったのだろうか。
こんなところにいては、また何か言われてしまう。自分は部外者なのだから、テニス部に関係ないのだ。

帰らなくてはいけないと強く思っているのに、地面に足が張り付いてしまっている。
呼吸も苦しくて、心音がこれまでにないほど大きく響いていた。

リョーマ君は、まっすぐこちらを見ている。
以前廊下で会った時は目を逸らされてしまったけれど、今はハッキリとその目に私を写していた。

その時ようやく、私は彼の髪が乱れていることに気付く。
トレードマークの帽子は被っておらず、少し息があがっていてまるで走ってきた後のようだった。
それでもリョーマ君は止まらずどんどん近づき、ついには手が届きそうな距離でピタリと止まった。

「・・・あ・・・」

あんなに話がしたいと思っていたのに、いざ本人を目の前にすると言葉が見つからない。
口がカラカラに渇き、手が震えないよう強く握り締めることで精一杯だった。

眉根を寄せている彼は、怒ったような困ったような表情のまま何も言わない。
どうしよう、私はまた彼を怒らせてしまったのだろうか、そう思うと胸が痛み鼻の奥がツンとした。
何を言われても泣かないと心に決めた時、リョーマ君は口を開いた。

「・・・、先輩」

呼ばれた名前が、頭の中で幾重にも聞こえる。
声色に怒りが含まれていないことは分かったけれど、すっかり臆病になってしまった私は目で頷くことが精一杯だった。
あの、と一度目を伏せたリョーマ君は少しの間の後、意を決したようにこう言った。

「その・・・ごめん」

思いもよらないその言葉に、びっくりして思考回路が停止した。
ピクリとも動かない私に何を思ったのか、この間、と彼は付け足す。
すぐにあの時のことを言っているのだと分かった。

「ちょっと・・・疲れてて。ついあんなこと言ったけど」
「・・・あ、あれは、私が・・・」

あれは私が悪いのだ。
疲れているときに、部外者のくせに余計なことを口にしてしまった。
ごめんなさい、と蚊の鳴くような声を出すと、リョーマ君は首を左右に振った。

「違う。先輩は悪くない」

こんな時に、名前を呼ばれて嬉しいなんて思ってしまった私はとても不謹慎だ。
こみ上げる何かを抑えながら、懸命に思考を働かせて口にする言葉を考える。

「・・・でも、私・・・!」
「関係ないなんてこと、ないよ」

言おうとした台詞が、すべて弾けて飛んでしまった。
リョーマ君の強く輝いている射抜くような視線が、真っ直ぐに私を捉えて放さない。
呆けている私に、彼はもう一度、ゆっくりと伝えた。

「関係ないなんて・・・そんなこと、思ってないから」

そう言ったリョーマ君が微かに笑う。
その顔を目にした途端、苦しかった胸のうちが嘘のようにスーッと軽くなっていくのを感じた。
代わりに滾るような熱さが溢れてきて、私は思わず口を両手で覆う。

「リョーマ君・・・」
「・・・なに?」

呟くような私の声に、優しい声で応えてくれる。
また名前を呼べることが嬉しくて、私はもう一度彼の名を呼んだ。

「リョーマ、君っ・・・・・リョーマ君・・・!」

ぽたぽたと、涙が音もなく落ち地面に吸い込まれていく。
泣かないと決めたはずなのに、決壊はあっという間に崩れてしまった。

こうして泣いてばかりではいけない、今伝えたいことを、と私は涙を拭きながら彼に向き合った。

「また・・・テニス、見に行っても・・・いいっ・・・?」

ほんの少し目を見開いたリョーマ君の口元が、小さく笑みをつくる。
そしてしっかりと目を合わせたまま、彼は頷いた。

「待ってる」


ああ、そうか。
私は彼に会うためにテニス部に行っていたんだ。
いつの間にか目で追っていたのは、私の心の中にリョーマ君が存在していたからなんだ。

離れていた心と心が再び近づいていく。

日常が、急速に鮮やかな色を取り戻していく気がした。



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