リョーマは心のどこかで感じていた。
あと一歩、たった一歩足を横に踏み出したら きっと世界は鮮やかに変わるということを。



第二十二話



朝起きた時、リョーマは父親の南次郎が既に家を出たと知って驚いた。
珍しいこともあるものだと朝食のパンを飲み込みながら、同時に打ち合いができなくなったことに気付き溜息をついた。

今日のテニス部は午後からだが、午前中は特にこれといってやることがない。
愛猫のカルピンは昨夜のことを根に持っているのか、餌を食べて早々どこかに行ってしまった。
このまま部屋でゴロゴロしていれば雑草取りでも手伝わされるかもしれない、そう思ったリョーマは
とりあえず寺のコートへ向かうことにした。

いつでも部活に行けるよう青学のユニフォームに着替え、コートの傍にある木のベンチに腰をおろしラケットを取り出す。
ガットの張りを確かめて、ラケットの赤い淵をなぞると今朝見た夢をふと思い出した。

昨夜、寝る前まで考えていたことが反映されたのだろうか、夢には青学のテニスコートに立っている自分がいた。
誰かを相手にしているのだろうけれど、その相手はハッキリと思い出せなかったがが傍にいたことだけは分かった。
その光景はまるで初めて会ったときのようで、遠くない出来事なのになぜか懐かしさが溢れてくる。
あの頃は青学テニス部に入ったばかりだというのに、自分には一年生という初々しさなど微塵もなかった。

今の自分は、以前の自分ではない。

今まで一人で立ち続けていたコートに、いつの間にか一人また一人と人が増え、同じ青を背負い、一本道だった目標が枝分かれをした。
目標が増えたということでも驚きなのに、今また自分の心が変化をしようとしている。
それも、テニスとは関係のない出来事で。
今、目の前に塞がっている壁の向こう側には、一体何があるのだろうか。


意味もなくガットをいじり続けていると、誰かの影が自分の足元に落ちていることに気付いたリョーマは顔をあげた。
カメラを首から下げた不二が、にこりと笑って立っている。

「おはよう、越前」
「・・・勝手に入ってくるなんて、」
「おばさんに聞いたら、ここだって言うから」

寺にコートがあるなんてすごいね、と何食わぬ顔で言う不二にリョーマはあからさまに嫌な顔をする。
まさか昨日部室で言ったことを、こんなところまで言いにきたのだろうか。
何か言い訳をしてこの場を凌ごうと考えているリョーマに気付かず、不二は暢気に鐘の写真を撮ると、突然向き直りこう言った。

「さっき、さんに会ったよ」
「!」

ぎくり、と顔色の強張ったリョーマに、不二は素知らぬ顔で続ける。

「彼女、これから学校に行くんだって。何しに行くかは知らないけれど」

は部活に入っていない。
それはリョーマも知っているし、まさか補修を受けに行ったわけでもないだろう。
忘れ物でも取りに行ったのか、と無意識のうちに理由を考えていると、不二の視線を感じ見られていることに気付いた。
ふいと顔を逸らし、だから何だとリョーマは声を張る。

「別に俺はっ」
「ただ伝えにきただけだよ。どうこうしろとは言わない」

君も子供じゃないだろう?そう言って不二は微笑むと、片手を挙げてコートを去っていった。

「また午後に、越前」


どうやら彼は、本当に伝えに来ただけのようだ。
再びコートには静寂が戻り、緩い風の音だけが耳の奥に響いている。
その場に座っているリョーマは、激しく悩んでいた。

今更会って、一体何を話せというのだろうか。
自分の感情に戸惑いイラつき、つい彼女を傷つけてしまったというのに、許してもらおうだなんて虫がよすぎる。
そもそも自分は、まだ感情を認めてはいないのだ。

「・・・くそっ」

どうしてこんなことになってしまったのか。
すべてはこの間の、廊下で見かけたと男子生徒との会話だった。


テニス部への興味を問われた彼女は、「ある」も「ない」も言わなかった。
自分がすぐにその場を立ち去ったため、ひょっとしたらあの後、何か言ったのかもしれない。
それでも期待した答えがすぐに出てこなかったことが、リョーマはショックだった。
同時に、ショックを受けている自分自身が信じられなかった。

彼女は聞かれた時、一体どんな表情をしていたんだろうか。
すぐに答えなかったから、きっと困った顔をしていたのかもしれない。
それとも、テニス部に興味があるかどうか考えたこともなかったから、驚いていたのかもしれない。

リョーマからしたら、ないなら「ない」と、ハッキリ言って欲しかった。
それはそれでショックかもしれないが、答えが分からないよりかはよっぽどいい。

自分がこんなに戸惑っていることが信じられず、思わず冷たい言葉をぶつけてしまったあの瞬間を、リョーマは鮮明に覚えている。
見開かれた彼女の目に、しまったと後悔しても後の祭り。
撤回もできないまま、その場を離れることしかできなかった。


(・・・なんでだ・・・)

こういう時に限って頭に浮かんでくるのは、彼女の笑顔だった。

緊張した固い笑顔、はにかんだ笑み、苦しそうな笑い、気付けば色んな表情を見ていた。
まだ自分は、彼女に笑顔を咲かせることができるのだろうか。

リョーマはラケットをしまった。
テニスバッグのフタをしめ持ち手を掴んではいるが、足に地面がついたまま動かすことができない。
その場で、大きく深呼吸をした。


自分には、整理をつけなければならないことが二つある。

それは意地を捨て渦巻く感情をまとめることと、謝罪の言葉を伝えること。
なにも同時に片付けなくてもいい、どちらか一つ先に実行するならば、間違いなく後者じゃないか。

すべての感情は後回しにして、今一番伝えたいことを伝えよう。
ただ一言、ごめんと口にしたら何かが変わるかもしれない。
変わらなければ、それはその時考えればいい。


勢いよく立ち上がったリョーマは、急いで自宅の門扉へと向かった。
慌てて家を出る息子に驚いている母親と菜々子の声を聞き流して、扉を閉めると向かい風を受けながらそのまま青学へと走った。

果たして彼女は、もう青学に付いたのだろうか。
用事を済まし、ひょっとしたらもう帰ってしまっているかもしれない。
でも、それでもリョーマは走ることをやめなかった。
根拠も何もなかったが、は青学にいるという妙にハッキリとした確信があった。


自分の中の意地や戸惑いが、なくなったわけではない。
素直に気持ちを認めたのかというと、決してそうでもない。
でも今、自分がやらなければいけないことは一つだと、強い思いがこの身体を突き動かしていることは事実だ。

先程まであんなに重く地面にへばり付いていた足が、今は早く早くと何かに導かれるように動いている。
自分は今、に会いたがっている。会って謝りたいと思っている。
心の奥底から、そう叫んでいる。

風は追い風へと変わり、リョーマは速度を上げて青学へと走った。


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次はヒロイン視点となります。
視点がコロコロ変わってすみません。