彼との出会いで、私は様々なものを得た。
第二十一話
昔から、私は臆病な性格だった。
何をするにも勇気が無くて、引っ込み思案で人見知り。
今でこそ少しはマシになったけれど、自分に自信がないところは中学に入っても変わることがなかった。
積極的な性格ではないけれど、それでも学校生活は楽しく友達もたくさんできた。
一番の親友は付き合いの長いだけれど、クラスの女の子は皆大切な仲間達。
地に足がついて前に進めない私を励まして、時には引っぱって助けてくれた。
だけど、どうしようもない私の弱さは、積もり積もってついには大好きなことにまで影響を及ぼし始めてしまった。
好きなことをやるたびに、自分の限界に気づいていく。
このままやり続けて限界という壁に行き着くのなら、もうやらない。
傷つきたくないから、嫌なことは知らんぷり。
私はそうやって、自分の心を守っていた。
抗おうともせず、越えようともせず。
ずっとそうやって生きていくんだと思っていたのに。
それなのに、あの日見たリョーマ君の姿は強く焼きついて離れない。
輝く瞳から溢れ出ている自信と勇気は、一体どうしたら得ることができるんだろう。
青空の下、ただひたすらボールを追う彼の姿は、あの頃の私にとって羨ましいとしか言いようがなかった。
ぼんやりと私の意識が浮上し、朝が来たことが分かった。
カーテンから漏れ出る光を目に映し、今日は休日であることを思い出す。
時計を見れば八時を指していて、一時間ほど二度寝しちゃおうかと枕に顔を埋めた。
心地よいまどろみでいつもならすんなり眠気に負けてしまうのに、今日はなんだかやけに頭が冴えている。
こんなに寝起きがいいのは珍しく、何かいいことがあるのかもと私はベッドから起き上がった。
カーテンと窓を開け新鮮な空気を部屋に取り入れ、大きく伸びをする。
その時何の前触れもなく、起きる前まで見ていた夢を思い出した。
それは青学のテニスコートで鮮やかなプレーをする、リョーマ君の夢だ。
相手はよく分からなかったが、力強くも繊細な動きでボールを打ち返す彼は、まるで初めて見た時の光景のようだった。
今日は休日だけど、テニス部は練習があるんだろうか。
リビングに向かい既に起きていた両親と朝食をとり、身支度を整えながらも頭からリョーマ君のことが離れない。
部屋着に着替えようと自室に戻ってきたところで、ふと思い立ち私はクローゼットを開けた。
ハンガーに掛けられている制服を手に取り袖を通す。
ポケットの中にハンカチと小銭を入れ、もう一度リビングに向かい母親に声をかけた。
「ちょっと学校行って来るね」
食器を洗っていた母が私の声に気付き、驚いた顔をして台所からでてきた。
「今日お休みでしょう?」
「うん。ちょっと・・・と待ち合わせしてて」
「そう・・・あまり遅くならないようにね」
すぐ帰ってくるよと言い残し、私はローファーを履いて家を出た。
と待ち合わせというのは嘘だった。
彼と初めて会ったあのテニスコートを、久しぶりに見たくなったのだ。
ひょっとしたら休日練習でテニス部がいるかもしれないと思うと悩むが、それでも行きたい気持ちは止まらない。
要は思い付きで、夢に触発され衝動的に動いているのだ。
もしリョーマ君がいたらすぐに帰ればいいと、この時の私はそう軽く考えていた。
自宅から一歩外に出れば、夏を感じさせるような日差しが照りつけてくる。
もう梅雨は去ってしまったのか、空は雲ひとつない青空だった。
時たま吹き抜ける風はひどく穏やかで、信号で立ち止まっている間も自分の髪がふわりと揺れているのが分かる。
休日の朝は心地いい。
普段の喧騒はなく、時間がゆったり流れていて道行く人の表情も穏やかだ。
本当は、今日は一日お家でのんびりしようと考えていたけれど、こういう風にお散歩するのも気持ちがいい。
通りかかった小さなプードルと戯れ、飼い主さんと少し会話をして止まった足を再び進める。
比較的大きな公園の傍を通りかかると、中には親子連れや散歩をする人がチラホラ目に入った。
それを横目で見て通り過ぎようとした時、聞き覚えのある声が私を引きとめた。
「さん?」
「え?」
「ああ、やっぱりそうだ」
振り向いたそこには、カメラを持った不二先輩がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。
制服姿の私とは違い、先輩は品のいいシャツにジーンズというラフな格好だ。
初めて見た私服はとても素敵で、私は思わず心の中でを呼んでしまった。
「不二先輩!」
「おはよう。さん、制服着てるけど学校行くの?」
「あ・・・はい。ちょっと用事があって」
答えながら、ほっと息を吐いて安堵する。
先輩がいるということは、今日の休日練習はないんだろう。
安心した私は手に持っているカメラを指して、写真撮ってるんですかと聞いた。
「うん、僕の趣味でね。」
「写真が趣味なんて、素敵ですね。・・・あの、今日は部活、ないんですよね?」
「今日は午後からなんだ」
「そ、そうなんですか」
よかった、と心の中でもう一度息をつく。
これならテニス部の誰に会うこともなくコートに行ける。
「・・・そういえばこの間はごめんね、さん」
「え?・・・何がですか?」
突然謝られたことに驚いていると、先日カフェに誘ったことだよと先輩は申し訳なさそうな顔をした。
「あれで変な噂がたっちゃって。迷惑かけたね」
「いえ!相手が私だって誰にも知られていないですし、大丈夫ですよ」
そう。
不二先輩とカフェに行ってから数日も経たないうちに、噂は学校中に広がっていった。
幸いそのお店にいた子が他校の女の子ということもあり、結局誰か分からないままになっているけれど
もしあの場に青学の人がいたら、恐らく今よりもっと噂に尾が付いていただろう。
同じクラスの女の子や桃ちゃん、それに荒井君達が話している度にどぎまぎしている私に気が付いたは、
自分が不二先輩に話を持ちかけたのだとすぐに打ち明けてくれた。
こんな噂になると思わなかったとしょんぼりする彼女に、謝らなければいけないのは私だった。
本来なら、親友であるに真っ先に相談するべきだったのだ。
言えなくてごめんねと、私はようやく胸の内を伝えることができたのだった。
「あの・・・それに」
「ん?」
「あの時、自分が不安に思ってることを口に出して、スッキリしました。・・・解決したわけじゃ、ないんですけど」
口にしたからといって、痛みや不安、疑問がすべてなくなったわけじゃない。
それでも内に溜まっていた何かを吐き出したことで、どこか冷静に見つめている自分がいることは確かだ。
もう一度リョーマ君に話しかけろと言われたらそれはキツイけれど、もし会えたら、今なら真っ直ぐに向き合える気がする。
向き合いたいと、心の奥が叫んでいる。
そっか、と不二先輩が小さく笑った。
「さんもそうだけど・・・でも、越前も同じように苦しんでる」
「・・・え・・・」
「きっと知らない感情だから・・・その先にあるものが分からないから、無意識に避けてしまうのかもね」
これは独り言だけど、と先輩が続ける。
「でも彼がその壁を乗り越えた時、きっと今まで以上に強くなるよ」
そう言って微笑んだ彼の表情は、私が質問することを阻むようだった。
そして話を逸らすように、こほんと咳払いをする。
「ごめんね、引き止めちゃって。学校行くんだよね」
「あ・・・は、はい・・・」
その言葉に思わず時計を見ると、ちょうど九時半をまわったところだ。
カメラを片手に持ち直した不二先輩が手を振る。
「それじゃあね、さん」
「はい」
そのまま公園の中に入っていった先輩の背中を見送って、私は歩き出した。
今の今まで話していた内容が、くるくると頭の中を駆け巡っている。
壁を乗り越えたら今まで以上に強くなると、不二先輩は言っていた。
きっとリョーマ君は、これまで数え切れないほどの壁を乗り越えてきたんだろう。
だからこそ、あんなに強く逞しい心を持っているのだ。
そんなリョーマ君が乗り越えられない壁なんて、そんなもの、あるのだろうか。
強い彼の瞳を思い浮かべて、私は青学へと進める足の速度を、ほんの少しだけ上げた。
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次はリョーマ視点。
同日の朝から話が始まります。