第二十話
その日手塚に居残るよう言われたリョーマは、いつになくノロノロと着替えを進めていた。
堀尾達三人組に早く着替えろとせっつかれ、桃城にはしゃきっとしろと背中を叩かれ、部長と話し合いがあると言うと
部室に残っていた者はあっという間に帰っていった。
心配そうな表情の大石から部室の鍵を受け取った手塚は、なんでもないと諭して副部長まで追い出してしまった。
いや、追い出したというのは語弊があるかもしれない。
それでもリョーマは、なぜ副部長である大石ではなく代わりに不二がいるのか分からなかった。
もっとも、当初は自分と部長の二人での話し合いかと思っていたのだが。
制服に着替え終えてベンチに座っているリョーマの前で、手塚と不二は顔を見合わした。
話すタイミングを伺うように目を合わせている二人に、リョーマは嫌な予感が胸をよぎる。
少しの沈黙の後、不二が口火を切った。
「越前・・・・あの子と何かあったのかい?」
まさに頭をよぎった内容に内心舌打ちをする。
始まったばかりの話し合いだが、早くも帰りたくなってきた。
手塚の視線を感じながらも平静を装い、リョーマは下を向いて呟く。
「あの子って誰っスか」
「さんだよ。ちょっと前まで、よく一緒に帰ってたじゃない」
間髪いれずに返され言葉が詰まる。
確信めいた不二の声は、まるですべてを知っているというように聞こえた。
「・・・別に、何もないっスよ」
「何もないだなんて・・・・いつもの越前じゃなかったよ、あのプレーは」
あの時の、と不二が続けて口にしたのは、恐らく桃城と打ち合いをしたときのことだろう。
本当に些細な変化だというのに、桃城とだけでなく不二も気付いたというのか。
ということは、この場にいる手塚も知っているのだろう。
それまで黙っていた手塚が口を開いた。
「お前の変化は些細なものだ・・・今後試合に影響する程のことではないだろう。だが」
何があるか分からない、と続けられた言葉に、リョーマ眉を寄せる。
「いつ何時どんな瞬間、その変化が大きくなるか分からない。分かっていると思うが、テニスはメンタル面が大きく左右する」
「・・・分かってますよ・・・」
そんなことは分かっていると、リョーマは心の中で何度も繰り返した。
体調を整えるように、精神も整えなくてはいけない。
不安はできるだけ取り除き、悩みはできる限り解決していかなくてはならない。
それはプレイヤーならば当然のことだ。
しかしリョーマには、あと一歩がどうしても踏み出せずにいた。
今まで経験したことのない感情を前に、どうしたらいいのか分からず右往左往している自分がいる。
テニスではない壁に、初めてぶつかっているのだ。
黙り込んだままでいると、不二が小さく溜息を吐いた。
「越前にとってさんは、どうでもいい存在なのかい?」
「自分に関係のない人間なんていないぞ・・・越前」
「手塚の言うとおりだよ」
「ほんとーに、なんでもないっスから」
これ以上何か言われることがうっとうしかった。
床に置いてあるテニスバッグを肩にかけて部室を出ようとすると、扉の前に不二が立ち帰路を遮る。
身長差もお構いなしに、リョーマは目の前の相手を睨みつけた。
「・・・どいてください」
「逃げるのかい?」
不敵な笑みと共に吐かれたその言葉は、リョーマの足を止めるのに充分な効果を発揮する。
「そうやって逃げるなんて、君らしくないな。テニスではどんな壁も乗り越えていく君が・・・」
「・・・テニスとは、違う」
そうだ。
目の前に立ち塞がっているものは、テニスとは無関係な感情だ。
テニス一筋のリョーマにとって、そんな感情は知らないもの、そして要らないものなのだ。
そう考えるようにしていたのに。
「・・・・っ」
不二の脇をすり抜け部室の扉に手をかけたリョーマの背中に、手塚の低く短い声がかかった。
「越前、明日の練習は午後からだ」
部長のその一言を耳に入れると、一呼吸置いてから扉は開かれリョーマはテニス部を後にした。
挨拶もなしに帰宅したことを咎めることもせず、手塚はやれやれと言ったように肩をすくめる。
腰に手を当てた不二は苦笑いをしながらも、その表情はどこか楽しそうだ。
「手塚、お父さんみたいだったよ」
「・・・」
からかうような言葉には特に反応を示さず、手塚はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「・・・ところで、越前はいったい何が理由で喧嘩をしたんだ」
そういえば急なことだったので、あまり詳しい話をしていなかった。
どこから話そうかと考えを巡らせながら、喧嘩じゃないよと不二は呟いた。
「越前に春がきたんだよ、手塚」
部室から逃げるように帰ってきたリョーマは、自宅の門扉を開いて大きく溜息をついた。
いつもと変わらない部活だというのに、最後のやり取りで疲れがドッと出てしまった。
早く風呂に入りたい、と並々とお湯の張った浴槽を想像しながら玄関に入ると、そこには行儀よく座った愛猫が出迎えてくれていた。
「ほあら〜ほあら〜!」
「・・・ただいま、カルピン」
いつかの仁王立ちで立つ父親より遥かに嬉しいものだが、今日は抱き上げることもなくそのままさっさと一人自室に入っていく。
残された愛猫が不満の声を漏らしているのを微かに聞きながら、リョーマは荷物を片付け楽な格好に着替えるとベッドの上に腰掛けた。
しばらくぼんやりとそのままでいると、一階から母親の呼ぶ声がする。
食事の支度ができたのだと気付き、脱ぎっぱなしの洗濯物をかき集めて自室を出た。
それからは普段どおり、家族そろって夕食を食べた後は、待ちに待った入浴の時間だ。
お気に入りの入浴剤を入れ汗を流し、火照った体を冷ますため居間に戻ると父親の背中が目に入った。
寝転び雑誌を読みながらテレビを見ている父親の横で水を飲んでいると、おいリョーマと声をかけられた。
「何?」
「そういえばお前、この間の遊園地は結局誰と行ったんだ?」
父親としては特にからかうつもりではなく、何気なく聞いた言葉だった。
だがリョーマはさっと顔を強張らせ、一言も答えることなく立ち上がりその場を離れる。
返事がないことに気付いた南次郎が振り向くと、既にそこには誰もおらず空っぽのコップだけがテーブルの上に置かれていた。
「なんだぁアイツ、便所か?」
事情を知らない男は気にする風もなく、何事もなかったかのようにグラビア雑誌のページをぱらりと捲った。
「あら、リョーマさんもう寝るの?」
居間を出たリョーマは洗面所で歯を磨いていた。
普段よりも早い時間の歯磨きに、ひょっこり顔を出した菜々子は鏡越しに首をかしげる。
「明日も練習あるし」
「まぁ、お休みの日なのに大変ね」
頑張ってねと手をあげた彼女に小さく頷いて、リョーマは口をゆすいだ。
早く寝ると言っても、明日は朝練ではなく午後からだ。
だが起きているだけで余計な考え事をしてしまうことが嫌で、何も考えずに済むようさっさと眠りに付きたかった。
トイレを済ませ部屋に戻ると、カルピンはいない。
さすがに寝るには早いのか、まだ遊び足りないのかどうやら一階にいるようだ。
いつでも入ってこれるようにドアの隙間を少し開け、電気を消してベッドの中に潜り込んだ。
とはいえ、やはりすぐに眠気は襲ってこず、リョーマは無意識のうちに明日の予定を頭の中に描いていく。
今日は帰宅してからあまりカルピンに構ってやれなかったから、明日朝起きたら一緒に遊ぼうか。
その後親父と軽く打ち合って、それからテニス部に向かえばいい。
明日は学校が休みだから、彼女に会うこともないだろう。
そこまで考えて、リョーマは寝返りをうった。
やはり、自分はどうしたって彼女のことを考えてしまうのだ。
青学のテニスコートを思い浮かべるだけで、の姿がぼんやりと見えてくる。
それはきっと、初めて目にしたのがその場所だったからなのかもしれない。
周りにいるギャラリーとは違った視線を自分に投げかけていた彼女は、その可愛い容姿もあいまってすぐにリョーマの目にとまった。
明らかに自分に対して苦手意識を持っていたように見えたけれど、何かの縁なのか帰り道は一緒になるし、
お昼は気付けば賑やかに、そして遊園地にまで行くようになっていた。
涙を見て、二人きりの帰り道が増えて徐々に距離が近づいた矢先、自分は彼女を傷つけてしまった。
近かった距離が、今はとても遠い。
その原因が自分にあることは分かってはいるけれど、知らない感情に戸惑い認めることができず、顔を背けても心は落ち着かない。
素直になれない自分の強情さには、ほとほと呆れてしまう。
思考を止めろと言い聞かせ、リョーマは強く目をつぶって布団を被る。
それでも瞼の裏に描いたテニスコートには、彼女の影が薄れず強く残ったままだった。
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