理由の分からない心のいら立ちが、さらにイライラを呼び寄せる。
少し前まで笑顔が見たいと思っていた、あの自分は一体どこへ行ったのか。



第十九話  



昼休みの鐘が鳴った途端、後ろの席にいた堀尾が突然身を乗り出してリョーマに話しかけてきた。

「なぁ越前、知ってるかぁ?」
「・・・何?」

内緒話をするように肩を潜める相手を、リョーマは目の端に映しながらお弁当箱を取り出し机の上に置く。
話を聞きながら食事を始めるのにも気にせず、堀尾は続けた。

「あの不二先輩が、何日か前に青学の女子とお茶してたんだってよ!」
「ふーん」
「相手が誰かって噂になってるけど、でも納得だよなぁ、不二先輩に彼女がいるのってさ」
「噂だろ」

確証もないのに話が一人歩きをしていることに、不二だけでなくその相手にもリョーマは同情した。
と同時に、ふと思い当たることがあった。
最近廊下で群がっている女生徒の傍を通りかかる度に、不二先輩という言葉を聞いていた気がするのだ。
あれはそういう理由からだったのだろう。

リョーマが話に食いついてこないことに堀尾はテンションが下がったのか、唐揚げを頬張る姿を見て自分のお腹をさすった。

「越前は弁当か。じゃ、食堂でも行こっかな」

そう言って教室を出て行った彼の背中を見て、リョーマはようやく静かになったと息をついた。
弁当箱の隅に転がっているプチトマトを箸でつつく。

こうして屋上で昼休みを過ごさなくなってから、もう二週間は経っていた。
ちょうど梅雨という季節柄ではあったけれど、たまに覗く晴れ間の時でもリョーマは屋上に顔を出さなかった。
始めの頃は誘いに来ていた桃城も、頑なに首を縦に振らない自分に諦めたのかお誘いの言葉がかかることはなくなっていた。

箸を持つ手に力を入れるとプチトマトの皮が裂け、突き刺したそれを口に運ぶ。
ゆっくりかみ締めながら、リョーマはポケットの中に小銭が入っていることに気付く。
あとでファンタでも買いに行こうか、そう思った後少し考え、いややっぱりと思い止まった。

堀尾が戻ってきたら、彼に買ってきてもらおう。
大した用でもないのに、教室の外に出ることがリョーマは嫌だった。

先日自販機の前で達を見かけたとき、思わず避けてしまった自分の強情さには少し呆れた。
こんな風に彼女を避けるようになったのは、確かあの時。
が自分の知らない男子生徒と話していた、その会話を聞いた時からだった。


『男子テニス部に興味はないだろう?』


その一言を耳にした瞬間、急に心臓のスピードが上がったことを、今でもはっきりと覚えている。

今思えばなんてことない只の質問、それなのになぜかリョーマにとっては、まるで自分ととの関係を問われているかのように聞こえた。
彼女の答えが知りたくて、無意識のうちに耳をそばだてて動けなかった自分。
あとに続く沈黙で、リョーマの望む答えが出てこなかったこと。
それは、今までに経験したことのない衝撃だった。

この出来事が心に僅かな隙間を生み、あろうことかその日の練習で、桃城だけでなく本人にまでその乱れに気付かれてしまった。
自分の人生の大半を費やしてきたテニスに影響を及ぼすだなんて、リョーマは信じたくなかった。
そんな自分が腹立たしくなると同時に、彼女にさえ苛立ちを覚えてしまう。
その苛立った感情の弾みで心無い言葉を投げかけ、無視をして避け続けている。
それがを傷つけていると分かっていても、リョーマはどうしても素直に接することができずにいた。

きっと彼女は、今日の放課後の部活も見に来ないだろう。
久しく見ていないの笑顔を思い出しながら、気持ちを切り替えるように残りの弁当をかき込んだ。



どんよりとした曇り空の下で始まったテニス部には、桃城の威勢のいい声が響いていた。
つい先日部活を無断欠席していた彼は、三日経ってようやくその足をテニス部へと向け戻ってきたのだ。
乾のポジションを意識しているらしい黒縁眼鏡に見慣れた頃、桃城は手にした緑色のノートをリョーマに見せようと広げた。

「おい越前、ちょっとこれ見てみろよ」
「何スか」

開かれたページを覗き込むと、どうやらそこは不二について書かれているページだった。
きちんと書かれていることにリョーマは一瞬感心したが、ある一文を読んであからさまに肩を落とす。

「“不二先輩の密会相手情報”って・・・テニスと関係ないじゃん」
「だーってよ!あの不二先輩だぜぇ?やっぱ相手が気になるじゃあねぇか」
「別に・・・誰でもいいし」

そうは言いつつも、リョーマは思わず記されている文章を読む。

ファンの多い不二だからか、噂は青学中をまわっているようだが相手については未だに分かっていないらしい。
不二本人に直接聞く者も多いらしいが、彼女ではないの一点張りで同級生かどうかも分からずじまい。
噂の渦中にいる女生徒に迷惑はかけたくないと、この件に関しては一切口を噤んでいるようだ。

「でもなんで、相手分からないんスかね。こんだけ噂になってて」
「その一緒にいるとこを見たってのが、他校の女子らしいぜ」

それが不二に好意を寄せている他校の女生徒の耳に入り、噂が噂を呼び青学にまで入ってきたのだろう。
色恋沙汰に関する話というのは、とんでもないスピードで人々の間を駆け抜けるものだ。


桃城とリョーマが額を寄せ合い話していることに気付いた手塚が、越前、と声をかけた。
顔をあげると同時に、ノートを閉じた桃城は怒られると思ったのか慌ててその場を離れて行った。
桃先輩逃げたな、と心の中で悪態をつくリョーマの前に立ち、手塚は口を開く。

「越前、あとで話がある。今日は着替えたら部室に残っていろ」
「え・・・」

てっきりグラウンドを走らされるかと思っていたリョーマは、間の抜けた返事をしてしまった。
一体何の話かと問う前に手塚は踵を返し、コートで打ち合いをしているレギュラーの元へ歩いていく。

「・・・何だよ」

面倒くさい、とリョーマは一人呟いた。

レギュラーの誰かが打ったボールの音が、小気味よく耳に届く。
ふと見渡したフェンスの周りに、見知ったあの姿はやはりどこにもいなかった。


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