第十八話
二年八組のムードメーカーである桃ちゃんが、レギュラー落ちしたということを私は翌日知った。
荒井君達の話しがたまたま聞こえてしまい、テニス部が多いこのクラスでそれはあっという間に広まっていった。
部活にも顔を出していないということを誰かから聞いたも、さすがにいつものようにからかう事ができないようだ。
桃ちゃんのいないお昼休みは、この教室から太陽が消えてしまったように見えた。
リョーマ君に続き、桃ちゃんまで急に距離があいてしまった気がする。
なんだか寂しいなぁと思いながら、その日の授業を終え私は一人昇降口へと歩いていた。
いつも一緒に帰っているは委員の仕事があり、仲のいい女の子達も今日に限って忙しいらしく、一人の帰り道は久しぶりだった。
自分の下駄箱の靴を覗くと、そこにある見慣れないものに私は首を傾げた。
テレビや漫画でよく見かけるラブレターのようでもあったけれど、それはメモ帳の一枚を軽く折りたたんであるものだ。
何かのイタズラだろうか、そう思い開いて見た文面には、とても読みやすい綺麗な文字が並んでいる。
差出人は、あの不二先輩だった。
(不二先輩?なんで・・・?)
あまり会話をしたことのない先輩からの手紙に驚いたけれど、宛先はちゃんと私宛になっている。
短く簡潔な文章には、お店の名前と、もし今日時間があるならここに一人で来て欲しい、と記されていた。
指定された場所は青学から程近いカフェで、私も何度か行ったことがあるお店だ。
手紙の最後には、テニス部の部活があるから少し遅れるかもしれないと断りの一文が入っていた。
親しい間柄ではないけれど、不二先輩の性格はなんとなく分かっていた。
きっと普通のお話なら手紙ではなく直接誘い、しかもいきなり当日には言わず、前もって相手の予定を聞いておく人だろう。
そんな人が少し強引ともいえる誘い方をするなんて、何か焦っているんだろうか。
ひょっとしたら、桃ちゃんのことかもしれない。
一人で来いといわれた手前、誰かに相談するわけにも行かず、一体何のお話だろうと頭を巡らせながら私はそのお店へと向かった。
久しぶりに訪れたカフェは、人がまばらだった。
青学の生徒が一人もいないことに安心して、カウンターで飲み物を注文し代金を払う。
アイスティーを受け取ると、奥の二人席に腰かけ緊張を紛らわすように息を吐き出した。
チェーン店でもあるこのお店はカフェラテが一番のお気に入りだったけど、今日はちょっと飲む気にはなれない。
友達から借りている文庫本を取り出し、数ページ読んだところで私は本を閉じた。
変な緊張からか、内容がまったく頭に入ってこないのだ。
店内は相変わらず人が少ない。
水滴の垂れたアイスティーを飲み、まだ来る気配のない不二先輩のことを思い出しながら、私は再び考えを広げた。
きっと先輩は、テニス部に関係あることで話がしたいのだ。
ただの見学者でしかない私に関係があるのか不明だが、自分と先輩の唯一の接点はテニス部ぐらいしか思いつかなかった。
(やっぱり・・・桃ちゃんかな・・・)
気落ちしている彼を心配しているのだろう、きっと様子を聞きたいのかもしれない。
だが生憎、元気のない桃ちゃんに話しかけることができていないため、役に立ちそうな情報は持っていなかった。
それによく考えれば、自分よりも荒井君達に聞けば済むことではないか。
となると、桃ちゃんに関する話である可能性は極めて薄かった。
(こういう時、なら・・・・あ!)
思わず声が出そうになり、パッと口元を押さえる。
考え付いた一つの答えに、身体の体温が上がり心拍数が上昇し始めた。
ついでに、顔も赤くなっているかもしれない。
(もしかしてもしかして・・・!のことが聞きたかったりして・・・!)
そう思いついた途端、想像が止まらずニヤけそうになる口元を必死に引き締める。
だけど、充分あり得る話だ。
初めてテニス部の人達と一緒に帰った日から、あの二人はよく話をしていた。
が積極的に声をかけているというのもあるけれど、楽しそうに話している姿はどう見たって仲良しだ。
恋愛感情はない、と彼女は言っていたけれど、不二先輩からアプローチされればきっと恋心に火がつくだろう。
もしそうなったら、私は全力で二人を応援しよう。
よし、と小さな決意を固めた時、頭上からクスリと声が漏れた。
「それ、なんのガッツポーズ?」
顔をあげると、今まさに頭の中に想像していた人物が立っている。
慌てて両手を下ろし誤魔化すと、優しい笑みを浮かべた不二先輩が目の前のイスに座った。
途端に、忘れかけていた緊張が戻ってくる。
「いきなり呼び出してごめんね、さん」
「いえ!特に、用事もないですし」
「おまけに待たせちゃって。今日は結構早く終わったんだけどね、テニス部」
大丈夫ですと答えると、お詫びだよと言って先輩からクッキーの袋を渡される。
レジの横に置いてあった、チョコチップクッキーだ。
「あ、ありがとうございます・・・」
こんな気遣いをさらっとできるなんて、本当に素敵な人だ。
にっこり笑った不二先輩は、小さなトレーに乗っているコーヒーカップを持ち上げ、一口飲んで喉を潤した。
「桃、どうしてる?」
少し困ったようなその表情に、私は小さく胸が痛んだ。
やっぱり先輩も、桃ちゃんのことが心配なのだ。
教室での様子はそんなに変わりはないけれど、ひょっとしたらテニス部を辞めるんじゃないか、と誰かが言っていた。
今は話す機会が減ってしまって本人がどう思っているか分からないけれど、クラスの皆は心配しているのだ。
そう伝えると不二先輩は、そうかと静かに頷いた。
「まぁ、桃ならきっと大丈夫だよ」
なんともあっさりした言葉に、私は拍子抜けしてしまった。
このことを聞きたかったんじゃないのだろうか。
私の考えが顔に出ていたのか、先輩が手にしていたコーヒーを置いた。
「今日さんを呼んだ理由は・・・君について聞きたいことがあるんだ」
「私・・・ですか?」
予想していなかった言葉に、緊張が更に大きくなる。
「うん。・・・最近、何か困っていることとか悩んでいること・・・ある?」
この瞬間、私はようやく気付いた。
聞きたいことというのは、桃ちゃんでもでもない、私とリョーマ君のことだ。
不二先輩もと同様、きっと勘の鋭い人なのだろう。
口の重くなった私を見て確信めいた表情の先輩を相手に、誤魔化すことはできなかった。
親友のにも話していない事を打ち明けるのに一瞬戸惑ったけれど、状況を打開したい。
そんな思いが、私の口を動かした。
「・・・私・・・、私、リョーマ君を怒らせてしまったんです・・・」
「越前を、怒らせた・・・?」
忘れようとしていた光景が蘇り、意識しないようにしていた胸の痛みがズキズキと疼きだす。
ショックを受けた一言が、未だにハッキリと耳の奥に残っていた。
「多分なんですけど・・・余計なことを言ってしまって、それで口がきけなくなって・・・」
「越前は愛想はよくないけど、あまり怒るような性格じゃあないんだけどなぁ・・・何を、言ったの?」
「その・・・ちょっと前、テニス部の練習の時に・・・」
記憶を手繰り寄せる必要はなかった。
そんなに時間は経っていないし、何よりも忘れられない出来事で頭の中に染み付いていた。
テニス部でもない自分が、リョーマ君のプレイ中に些細な変化を見つけ、余計な一言を言ってしまった。
彼にとってなんでもない人間から口出しをされ、恐らくそれが怒りの原因じゃないだろうかと私は思っている。
プライドを傷つけてしまったのではないか、と。
その時の一部始終を話すと、不二先輩はとても驚いた表情をしていた。
「さん、越前のプレーの変化に気付いたのかい?」
「あ、でも確信があったわけじゃなくて、なんとなくです。・・・多分、気のせいだと思うんですけど」
「・・・・それで、向こうはなんて?」
リョーマ君の、あの時の冷たい表情が目に浮かんだ。
心臓がキュッと掴まれた気がする。
「・・・あんたには関係ない、って、言われちゃいました」
「越前が、そんなことを・・・」
「私が、あんな余計なこと言わなければ・・・」
あの日のお昼休みは、普通に会話ができていたのだ。
何も言わなければ、普段の日常がいつも通り進んでいたはずなのに。
黙ってしまった私を見て、不二先輩は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「いきなりこんなこと聞いてごめん」
「いえ。・・・あの、できればこのことは誰にも・・・」
「うん、言わないよ。約束する」
「・・・不二先輩は、どうして私とリョーマ君のことを・・・?」
「それは・・・」
答えるのを迷った末、先輩はから相談を受けたということを素直に話してくれた。
私とリョーマ君との間に何かあったことをすぐに悟った彼女は、数日前不二先輩に話を持ちかけたらしい。
お節介かと悩んだそうだけれど、女の勘からして第三者の介入が必要だと判断したそうだ。
リョーマ君の小さな異変に気付いていた不二先輩は、話を聞いてすぐにピンときたという。
それで急遽、こうして私を呼び出したというわけだ。
「そう、だったんですか・・・」
やはり私は、親友であるに真っ先に話をするべきだったのだ。
昔から支えてくれている彼女には、感謝してもし足りない。
「いい友達を持ってるね、さん」
不二先輩の言葉に、私は深く深く頷いた。
アイスティーの氷が解けて、カランと軽やかな音が小さく耳に届いた。
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