第十六話



一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。

私の横をリョーマ君が通り過ぎると、じわじわと頭の中に言葉が染み込んでそれはやがて全身に広がっていく。
隅々まで行き渡りようやく理解したその時、私の心の中にずっぽりと重いものがはまり込んだ。

そうだ、私は関係ない人間なのだ。
皆と食べていたお昼も、一緒に帰った帰り道も遊園地も、ただの“先輩”として過ごした時間だった。
それは当たり前のことであり分かり切っていたはずなのに、いつの間にか、彼と自分は近しい人間であると勘違いをしていたのだ。
部外者である私がテニスに口出しをするなんて、おせっかいにも程がある。

そう頭では理解できているはずのに、今、私の心はとても苦しくてはち切れそうなほどの痛みを抱えていた。

彼を怒らせてしまった。
明日から私は、どんな風に接すればいいのだろう。
謝らなくてはいけないけれど、果たして許してくれるだろうか。

「・・・リョーマ君・・・・」

突き刺さった言葉が離れなくて痛い。
もうここにはいない相手の名を呟くと、落ちた涙が地面にあたって砕けた。



その日の晩、ベッドの中に入った私はすぐ寝付くことができなかった。
言われた一言が頭から消えず、何度も寝返りをうち意識を闇に溶かそうとしても気付くとまた浮上してしまう。
一晩中そうしていたわけではないけれど、浅い眠りから覚め目覚ましより早く起きた私の身体は、案の定疲れが取れていなかった。

幸いクマはできておらず、母親にも悟られることなく明るい声を装って学校へと向かうことができた。
昇降口でクラスの子に挨拶をしながら上履きを履き替え、幾度となく周りを見渡す。
いつどこでリョーマ君に会うか分からない、心の奥底にある不安が行動にうつさせた。

教室の扉を開けると、おしゃべりをしていると桃ちゃんが目に入った。
急いで背筋を伸ばし、二人に笑って挨拶をする。

「おはよう!」
「おっはよ!」
「お、。はよっ」

いつもと変わらない雰囲気が出せたかな、と安心して自分の席についた時、の顔が横からぬっと現れた。

「わぁ!」
、なんかあった?」
「! ・・・」

咄嗟に思わず顔をそらしてしまったことで、鋭い彼女には気付かれてしまったようだ。
傍にいた桃ちゃんも、会話に入ってくる。

「なんだ、どうしたんだよ」

もしこの場で昨日のことを話したら、恐らくこの二人は解決しようと行動にうつすだろう。
リョーマ君と同じテニス部の桃ちゃんなら尚更だ。
だけどこれは自分で蒔いた種だし、自分の口で相手に謝らないと意味がない。

それに何より、この二人には気を遣って欲しくなかった。

「ううん、別に・・・ちょっと寝不足なだけ」
「なんか悩みとかあるんじゃない?」
「あるなら言ってみろよ。口に出すと、結構スッキリするもんだぜ」
「・・・ありがとう。でも大丈夫だよ。そんなに大したコトじゃないから」

私の曖昧な言葉にまだ何か言いたそうな桃ちゃんを遮ったのは、だった。

「分かった。だけど辛くなったら言いなよ?話聞くくらい、うちらにもできるんだから・・・ま、もっとも、桃に話を理解できるような
 脳ミソがあるかは別として・・・」
「あぁ!?なんつったお前!」
「桃に話を理解できるよーな脳ミソがあるかって言ったのよ!」
「あんだとー!?」

と長い付き合いをしているためか、何かを感じ取った彼女はうまく話を切り替えてくれた。
それに心の中で感謝をしつつ、消えない胸の痛みに小さく溜息を吐く。

確かに今、私は悩んでいた。

彼に言われた一言から、私の胸に苦しい何かが生まれたのだ。
ケンカをして悲しい悔しいという感情ではなく、経験したことのない痛みが突っかかっていた。
リョーマ君と仲直りをしたら、果たしてこれは消えてくれる痛みなのだろうか。

もう一つの悩みは、自分はどうしてテニス部を見に行っているのかという、クラスの男の子の言葉だ。

少し前の私なら、に誘われたからと答えることができたはずだけど、今、この理由はなぜかまったく当て嵌まらなかった。
確かに部員同士の試合はおもしろいけれど、試合を見に行っているわけじゃあない。
どうしてあんな単純な質問に答えることができなかったのだろうか。

・・・考えても解決しない問題に思い悩んでいては、だめだ。
とにかく初めにするべきことは謝ることだと、私は一時間目の授業が終わってすぐに一年二組の教室に向かった。


一年生の教室に顔を出すのは私にとって勇気がいることだが、幸か不幸かそんな心配は杞憂に終わる。
廊下を歩いている途中、真正面から目的の人物が歩いてくるのが見えたからだ。

ポケットに両手を入れて歩くその姿は紛れもなくリョーマ君で、会えてホッとすると同時に、急激な緊張が襲いかかってきた。
こちらに気付き微かに驚いた顔をしている彼に、私は歩く速度を速めて考えていた言葉を伝えようと近寄った。
謝らなければ何も始まらない。人ひとり分の間隔まで近づいたところで、私は口を開いた。

「リョーマ君、あの、ご、」

ごめんね。
伝えたかったその一言は、言えなかった。

すぐ近くまできたリョーマ君は立ち止まることもせず、口を開けた私の横をそのまま通り過ぎていってしまった。
何も見ていない、何も聞いていないというように。無言の拒絶だった。

言いかけた言葉は行き先を失い、体中から力が抜けて振り返ることも私には出来なかった。
指先一つ動かせず、胸の痛みは更に大きく、ジクジクと広がるばかり。

ショックで頭の中が真っ白になった私の耳に、チャイムの音がどこか遠くで鳴っていた。


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