第十三話
近頃私は、リョーマ君の存在を身近に感じるようになってきた。
というのも、以前よりも学校で接することが遥かに多くなったのだ。
お昼はたいてい、桃ちゃんととリョーマ君の四人で顔を合わせ食事をしている。
私とリョーマ君以外の二人は食べ終わると昼寝をしているので、起こすまで他愛もない会話をして過ごすのがお決まりのパターンだ。
放課後のテニス部はほぼ毎日『見学』するようになり、そのお陰か部員のほとんどの顔と名前が一致するようになってきた。
おまけに桃ちゃんやリョーマ君としょっちゅう話しているためか、どうやらレギュラー陣の方々には私との顔を覚えられているようだった。
先輩と知り合いになることで、廊下で挨拶を交わすことも自然と多くなりは大喜びだ。
憧れの不二先輩と、顔見知りどころか会話までできると毎日が楽しそうで、見ているこっちも微笑ましい。
心なしか、とれかかっていたパーマにも気合が入っている気がする。
リョーマ君を身近に感じるようになったのは、たぶん一緒の帰り道が一番の要因かもしれない。
以前は桃ちゃんと帰っていたと聞くけれど、最近の彼は自転車に乗らず私と歩いて帰っている。
確かに方向は同じだけれど、気付くといつも何故か二人きりになってしまうのだ。
こうして色々と小さな変化があるけれど、中でも大きく変わったことは私の心の中だ。
リョーマ君を羨望の眼差しで見ていた、ついこの間の私はもうどこにもいない。
今思い返せば、彼に対するあの醜い感情は一体いつ、何処へ行ってしまったのだろうか。
私がすべてを吐き出した、あの遊園地の日だろうか。
雨に流されたのか、涙で流したのか。
それとも、違う感情に変化したのかもしれない。
二年八組の教室に、開け放った窓から気持ちのいい風が入り込んでくる。
いつもは生徒で騒がしいこの教室も今は桃ちゃんと、それに私の三人だけだった。
もちろん授業をサボっているわけではない。今は三時間目、美術の授業中なのだ。
「、この絵の具借りるね」
「うん」
窓際の席を拝借して三人並んだ目線の先は、それぞれ描きかけのスケッチブック。
学校の好きな風景を描くという写生の課題が出されたため、イスに座って描けることができるこの教室に決めたのだ。
窓を全開にして見渡す校庭は、いつもより一回り大きく感じる。
「ん〜・・・なーんかうまく描けねーなぁ・・・描けねーよ・・・」
顎に手をそえて唸る桃ちゃんに、はからかいもせずせっせと自分の絵を仕上げていく。
二人とも、私が授業に出席することに関して何も言わなかった。
きっと気を遣ってくれているのだろう、私にとってそれはとてもありがたいことだった。
美術の先生も、久しぶりに顔を出した私を見て特に何も言わない。
ただ、授業内容を変更して写生にしてくれたことが嬉しかった。私は写生が大好きなのだ。
青い絵の具をパレットに出し、そこに白の絵の具を加え綺麗な空色へと変える。
久しぶりに握った筆は変わらない握り心地。高鳴る胸を感じて、絵に対する想いを再確認した。
今日の空はとても澄んだ色をしている。
梅雨入りが近いというのに、そんなことを微塵も感じさせないような天気だった。
広い校庭を見下ろせば、たくさんの一年生が体育の授業をしている。
集団から少し離れたところにいる男の子をよく見ると、頭の後ろで手を組んでいるリョーマ君が立っていた。
あ、と思うと彼が顔をあげ、目をこらすと小さく笑っているようだった。
桃ちゃん達に気付かれないよう私もそっと手を振り返す。
どうやら一年生は長距離走をやっているらしい。
大変そうだな、なんて思いながら筆を走らせていると、早々と描き終わったが水入れを洗って席に戻ってきた。
私の目線の先を追って、おっ、と声をあげる。
「あれ、越前リョーマ君じゃない」
数人固まっている男の子の中からリョーマ君を見つけるの視力は2.0だ。
続いて描き終わった桃ちゃんが絵の具をしまいながら、窓から身を乗り出しリョーマ君に気付かせようと試みる。
「桃ちゃん、落ちないでね」
「おう。・・・越前のやつ、全然気付かねーなぁ」
つまんねー、と体勢を戻した彼に苦笑しつつ、私も描き終わりに近づいていった。
ゆっくりと時間をかけて出来上がった絵。もう大丈夫。
こんなにも穏やかな気持ちで描いたのは久しぶりだ。私の心は、少しは成長したのだろうか。
校庭からホイッスルの音が響き、目を向ければ走り出すリョーマ君の姿。
風を切って走る彼はとてもかっこよかった。
こうして筆を握ることが出来たのはすべて彼のおかげだ。私の弱い心を救ってくれた。
ふと、何かお礼をしなければと思い浮かぶ。
描き終わった絵を乾かすため机の上に広げ、水入れを洗い片付けを終えると残り十分で授業が終わるところだった。
暇そうに窓の外を見ている二人に、私は思い切って声をかけた。
「ね、リョーマ君って・・・何が好きかな?」
質問内容がまずかったのか、二人はそろって首を傾げた。
「越前リョーマ君の好きなものっていったら、テニスじゃない?」
「あいつって言ったら・・・せんべいか。あとあの飲みもん、グレープだろ」
「あ、えっと、スポーツとか食べ物じゃなくって・・・」
理由も言わずに人の好きなものを聞き出すのは、私にはちょっとできないらしい。
とは言え、素直に彼にお礼がしたいと言えばなんのお礼か、と聞かれるのは目に見えている。
今ここで話すのは気が引けるし、部活をサボって遊園地行きましたなんて口が滑ってしまうかもしれない。
しかし私一人では、リョーマ君が喜びそうなことは思いつくことができなかった。
どう話せばいいかなと焦る私に、二人は口を揃えてこう言った。
「本人に直接聞いてみなさいよ」
「そーだな。俺もそれがいいと思うぜ」
胸にすっぽりとはまる至極簡単な答えに、そっか、と思わず呟いた。
何もサプライズを狙っているわけではないのだから、彼から直接聞けば確実だ。
「うん、聞いてみる」
以前よりたくさんお話をしているけれど、彼については知っているようで知らないことがまだまだ多い。
どんな答えが返ってくるんだろうと、私の心は少しわくわくし始めていた。
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