雨の中ひたすら走る。
感じるのは、右手から伝わるあなたの熱だけ。
第十一話
視界不良のまま辿りついた先は、そう遠くない小さなゲームコーナーだった。
私達と同じように駆け込んできた人達は、突然の雨に足止めをくらい困ったように皆空を見上げている。
掴まれていた右手は、まだ熱い。
「冷てっ・・・」
ハッとして見るとびしょ濡れのリョーマ君がズボンの裾を絞っていて、私はようやく自分の頭に被せられたものは彼の帽子だったということに気付く。
咄嗟に被せてくれたためか、私の髪はほとんど濡れていなかった。
「帽子・・・ごめんねリョーマ君!」
「別にいいって」
慌ててバッグからタオルハンカチを取り出す。
咄嗟に腕の中で庇ったおかげか、どうやらバッグの中身はすべて無事のようだった。
濡れてしまった彼の髪を拭こうと手を伸ばすとリョーマ君は、自分でやる、と照れくさそうに言ってタオルを取った。
ゲームセンターの中から外を見ると、相合傘をしているカップルが何組か歩いている。
今朝の天気予報だと雨は降らなかったはずなのに、そう思いながら、私はすっかり濡れてしまった帽子を見た。
変な折り目がつかないように軽く絞って水気をきると、見慣れたロゴマークが目に映った。
この帽子もロゴも、リョーマ君のトレードマークの一つ。
見るだけで、彼のテニスをしている姿が目に浮かんでくるのだ。
青い青学のユニフォーム、赤いラケットに、相手を挑発するあの笑み。
コートでボールを追う彼は、ボールを追うというよりも遥か高みを目指している感じがした。
私にはない、勇気と自信。そして才能。
「タオル、ありがと」
「あっ・・・うん」
リョーマ君の綺麗な髪は、まだ湿り気を帯びている。
水気を吸って少し重くなった帽子を渡すと、さすがに被れないためそのまま手の中に納まった。
「濡れちゃったから被れないよね・・・ごめんね」
「平気。別に困ることじゃないし。それよりどうする?」
勢いで駆け込んだゲームセンターは先程よりも人が多くなり、話し声も大きくなってきた。
子供連れの父親は、雨がやむまでだぞと言ってレーシングカーのコーナーへ向かい、私と同い年くらいの女の子たちは、プリクラを撮ろうかと話し合っている。
時間潰しとはいえゲームをする気にはなれず、ましてやプリクラを撮る気にもなれない。
お店の中を少しうろついてみても、店内のベンチはすでに座られている。
結局外に出て、屋根が届くベンチに二人並んで座ることにした。
一歩外に出れば、そこはもう雨の世界。
激しい雨が地面をうちつけ、大きくなった水溜りにいくつもの波紋を広げている。
ついさっきまで走って飛び込んできたというのに、今は流れている空気がとても静かだ。
握られた右手の熱は、まだ消えない。
「今日の練習、どっちにしろ中止になってたかな」
ズボンに両手を入れたリョーマ君が空を見上げ、ポツリと呟いた。
そうだ、今日はテニス部をサボって来ちゃったんだ。
苦笑しつつもラッキーだねと相槌をうつと、帽子をくるくると回しながら、明日はどうなんだろうと彼は再び呟いた。
本当にテニスが好きなんだなと思ったこの時、私はずっと聞きたくて聞けなかったことを質問してしまった。
「リョーマ君は、テニスをやめようと思ったことないの?」
言った瞬間しまったと手で口を覆っても、それはもう後の祭り。
前言撤回するよりも早く、彼の真剣な瞳が私を射抜いて目が逸らせなくなってしまった。
そして少しの沈黙の後、ゆっくりと、だがきっぱりとした声で答えた。
「やめようと思ったこと、あるよ」
「え」
「でも、やめられない」
顔を正面に戻したリョーマ君は、ポケットに両手を入れ少し俯く。
「まだ、越えていない奴がいる」
雨音を裂いて真っ直ぐに届いたその言葉は、私が考えていたリョーマ君のイメージそのままだった。
やっぱり彼は、遥か高みを目指し突き進んでいる。
たとえ乗り越えられないような壁でも、諦めず自分を信じてその壁を超えて行く。超えられると、自分で信じているのだ。
天性の素質、テニスの技術、そして精神力の高さ。彼にはすべてが揃っている。
「・・・すごいね、リョーマ君・・・」
絞り出した声は、その一言がやっとだった。
どうして私は、彼のようにいかないんだろう。前にぶつかっても進めるような精神力が、自分にもあればいいのに。
小さなことでもへこたれない、強い心が欲しい。そう何度願ったことか。
薄くなりかけていた彼への羨望を再び意識しかけた時、ふと自分の弱い部分を曝け出したいという衝動に駆られた。
彼にすべてを話したい。強い彼に、私の弱い部分を。
一体、リョーマ君はなんと答えるのだろうか。
「・・・あの・・・私、」
「?」
俯いていたリョーマ君が顔をあげた。
視線を感じて震える気持ちを叱咤して、喉から声をひっぱりだす。
「・・・私ね・・・自分に、自信が持てないの」
遊園地でするような話じゃないかもしれない。
けれど、自分の情けない部分を吐き出したい、そう思うと止まらなかった。
「昔から、嫌なことがあるとすぐに逃げるし・・・周りに引っ張ってもらわないと動けなくて」
それは小さな頃からだった。
苦手意識を持つと萎縮して、たとえ遠回りでも傷つかない道を選んで歩こうとする。
それを性格の一つと割り切ることはとても簡単だったけど、私はついに気付いてしまった。
自分はただ逃げているだけなんだ、と。
「から聞いたでしょ?美術の授業こと・・・」
私はいつの間にか、好きなことからも逃げていたのだ。
大好きだった絵。小さい頃から描いて描いて、描きたいものをなんの疑いも持たず描き続けてきた。
幼い頃からの落書き、ノートの墨に転がっているモノクロのイラスト、キャンパスがスケッチブックへと変わり、徐々に色づいていく絵。
中学に入り、以前と同じように真っ白い気持ちで描き続けていた時、何か小さな違和感を覚えた。
それは描いても描いてもうまくいかないという、経験したことのない辛さだった。
想像したとおりのものが描けない、思うような色がでない、どうして今までできたことが出来なくなったのか分からない。
好きなことだからこそ、うまくやりたいと思うのに。
そのうち馴れた筆を握ることが徐々に減り、開かなくなったスケッチブックは引き出しの奥にしまわれている。
私は、自分の能力に限界を感じてしまったのだ。
「それから、授業にもでれなくなっちゃって・・・絵以外の授業も、やってるって分かってるんだけど・・・」
『創造すること』に携わりたくなかった。
逃げている自分を、目の前に突きつけられている感じがするから。
私には立ち向かう勇気も抗える力も、ましてや超えられるという自信もない。
昔からの自分の性格が、まさか大好きなことに影響がでるなんて。
「だから私は、強いリョーマ君が羨ましい」
私が持っていない勇気や才能、そして自信を、彼は全部持っている。
に連れられて初めてテニスコートに行ったとき、天才と言われていたリョーマ君は一際輝いて見えたんだ。眩しかった。
話し終えた時、流れている空気が重たい雨空のように低く垂れ込めてしまった。
いけない、せっかく誘ってくれた遊園地なのに、話し込んで雰囲気を壊すなんて失礼なことを。
そう思っても、零れそうな涙は下を向くと落ちてしまいそうだった。
「あはは・・・それにしても、雨、やまないね〜」
話題を変えれば空気も変わるだろうか、取り繕いの話にも彼は答えることなく、黙って前を見つめている。
居たたまれなく私も話すことをやめ、たまった涙を指先ですくった。
楽しいはずの遊園地で、相手が泣き出したらリョーマ君もたまらないよね。
「ねぇ、先輩」
涙を拭いて顔をあげると、今まで見たことがないくらい真剣な顔をした彼がいる。
その真っ直ぐな瞳に囚われたら、簡単には逸らすことが出来ないのに。
「正直、俺は絵のことは分かんないし・・・先輩じゃないから、どれくらい辛いかなんて分かんないけど」
無理しなくていいんじゃない、そう口にした彼の言葉に、拭いたはずの涙が再び溢れてくる。
人前で泣くことは好きじゃないのに、どうしてリョーマ君の前だと素直に泣けてしまうんだろう。
「頑張れなんて無責任なことは言わないよ。ただ、高い壁なんて、そんなの誰にだってある」
俺だって・・・そう呟いた彼の視線の先には、見えない誰かがいるようだった。
乗り越えられないことは誰にでもある、その通りかもしれない。でも私は、そこから逃げることしか出来ないのだ。
だけどリョーマ君は、違うと言って首を横に振った。
「先輩は、もがいてるだけなんじゃないの。だって逃げてるんなら、それまでだろ」
「えっ・・・」
「先輩はまだ、どうにかしたいって思ってる。・・・だからこそ、苦しいんじゃない」
それに、と彼は続けた。
「壁を避けて違う道を通るのも、一つの勇気だと俺は思う」
超えることだけが全てじゃない、と。
胸の奥にある冷たい塊が、ゆっくりと溶け出していくのを感じる。
涙腺はゆるみ、重力に従って涙が止めどなく流れ出した。
「・・・あり・・・がとう・・・」
私が欲しかった答えを、彼がくれた。
肩を震わせて泣いている私の頭に、リョーマ君の手のひらが優しく乗った。
「泣きたいなら泣きなよ・・・肩ぐらい貸せる」
耳に届く優しい声に甘えて、私は彼の左胸に顔をうずめて泣いた。
自分でも、こんなに思いつめていたなんて思わなかったな。
少しずつ雨足が弱まってきたのを感じながら、この時かすかに、リョーマ君の心臓が早まる音が聞こえた。
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