第三十話
先日、食堂でリョーマ君に約束した通り私は一人でテニス部見学をしていた。
集団で固まっている女の子達からは少し離れたところで、この日の私の目は不二先輩の姿を追う。
というのも、は習い事があるため今日の見学には来れず、代わりに不二先輩を観察してねとお願いされたのだ。
それは特に深い意味があるわけではなく、もちろん一挙一動焼き付けろというわけではなく、何か新しい発見があったら
教えてねというなりの挨拶のようなものなのだ。
とはいえ、いつもお世話になっている彼女を喜ばせたいという気持ちからか、私の視線は不二先輩を追ってしまう。
今日の先輩はとてもよく動いていて、コートに入り立て続けに誰かと打ち合っていた。どうやらレギュラー陣メインの練習メニューのようだ。
思いがけない発見があるかもしれないと、私はおとなしくその場で見続けていた。
テニスコート内にぽつぽつと点を描く黄色いボールが、時間の経過とともに少し増えてきた。
すぐ近くでボール拾いをしているおかっぱ頭の男の子に目が行きそのまま顔が合うと、その子は「あっ」と小さな声を漏らした。
クリクリした瞳を持つその男の子は仲のいい友達と三人で固まっていることが多く、リョーマ君とも話しているのを見かけたことがある。
とはいえ会話をしたことはなく、かと言って視線を逸らすのも躊躇われたので私は遠慮がちに頭を下げた。
すると彼は顔を真っ赤にさせて90度にも近いお辞儀をし、その拍子に両腕に積んでいたテニスボールがぽろぽろと零れてしまった。
恐らく私が一つ年上だと知っているのだろう、気を遣わせてしまったのかもしれない。
フェンスを越えてボール拾いを手伝うわけにもいかないので、両膝をつきボールを集めているその子にごめんなさいと声をかけた。
「いっ、いえ!大丈夫、です」
慣れた様子で最後の一つを拾い終わった彼は、律儀にももう一度お辞儀をして去って行った。
かわいいなぁ、リョーマ君とはまた違うタイプだな、そう思いながら再びコートに視線を移して見学をしていると、今度は近くにいる
女の子達の会話が耳に入ってくる。告白しなよ、なんていうフレーズが聞こえてきて、思わず耳をそばだててしまった。
「えー!無理無理!」
「彼女いないんでしょ?」
「いないみたいだけどー・・・フラれたら超気まずいし」
盗み聞きのようで気が引けたけど、結局会話の内容が変わるまで聞き入ってしまった。
どうやら三年のテニス部員に好きな人がいるらしく、告白しようか迷っているらしい。
相手がリョーマ君ではないことが分かり思わずホッとすると同時に、急に漠然とした不安に駆られた。
リョーマ君への恋心を自覚した今、私は告白をするべきなんだろうか?
だけどもしダメだったら、さっきの女の子が言っていたように、今と同じ毎日には戻れないかもしれない。
きっと気まずくなってしまう。リョーマ君は気にするような性格ではないかもしれないけれど、私はムリだ。
お昼休みも帰り道も、以前の様には過ごせない。せっかく戻った日常を、失いたくはない。
また困った悩みが顔を出し始めたけれど、思考を切り替えようと深呼吸してフェンスに手をかける。
今は自分のことよりも、と。の為に、新しい発見を。
先程までラリーをしていたはずの不二先輩がおらず、コートを移動したのかなときょろきょろしていたその時だった。
ふいに目の端に黄色いものが映ったと思った瞬間、ガシャ!と大きな音がしてフェンスが揺れ、思わず手を放した。
どうやら私のすぐ近くのフェンスに激突したらしいテニスボールが地面に転がっていて、次いで誰かの大声が聞こえた。
「え、越前!どこ打ってんだよ!」
声の主は荒井君だった。
ネットを挟んで対峙している相手は、トレードマークの帽子をかぶったリョーマ君。
振り下ろしたばかりの赤いラケットを肩に担ぎ、すいませんと口にしているのが見えた。
ミスショットのはずなのに涼しい口調で、ちらりとこちらに向けた視線には薄い笑みすら浮かんでいる。
ったく、と言いながら振り向いた荒井君が、私を見て大丈夫かと問う。
そうして初めて、ボールが私のすぐ真横に当たっていたことに気付いた。心なしかフェンスが凹んでいる気がする。
それに頷いたのを確認すると、青い顔をした荒井君は再び腰を下ろしてラケットを構えた。
(・・・ビックリしたぁ・・・)
一気に加速した心臓を宥めながら、そういえば前にもこんなことがあったなと思い返す。
そう、あれはに連れられて、初めてテニス部を見学に来た時のことだった。
まだ彼への気持ちが芽生えてもいない、何も知らなかったあの時。
胸がキュンと詰まるような感覚が溢れてきて、いつの間にか私の視線は、リョーマ君だけを追っていた。
それから何事もなく部活が終了し、明るい西日が差す道路を私とリョーマ君は歩いていた。
以前よりもすっかり日は伸び、まだ六時前とは思えない外の明るさだ。頬にあたる緩い風が心地いい。
ガードレールと植え込みに挟まれた狭い道を半歩先に歩く彼にのことを聞かれ、習い事で先に帰ったことを伝えた。
するとこちらを向かずに、リョーマ君が口を開く。
「今日の先輩、先輩みたいだった」
「え?」
「部活の時」
一瞬なんのことか分からず首を捻ってから、普段のの姿を思い返した私はすぐに納得した。
確かに今日は不二先輩の姿を追うようにしていたから、いつものとダブる姿だったかもしれない。
最後の方は結局リョーマ君に目がいってしまったので、目標だった新しい発見というのは見つける事が出来なかったのだけれど。
「あはは。そうかも。の代わりに不二先輩の姿見ておこうと思ったんだ」
「ふーん。どうりで・・・」
「周りから見たら、私、変だったかな?」
「別に。いつもは俺のこと見てるのにって思っただけ」
「!」
それはまさに図星だった。
私の視線の先が自分に向いていることを、彼はとうに気付いていたのだ。
そのことを、こうして本人から直接指摘されることで知るなんて。一瞬にして私の脳内はパニックになった。
立ち止った私に続き足を止めた彼がこちらを振り向く。
西日を背にしたその表情は、影に隠れてはっきりと読み取ることはできない。
動かない私たちの横を、小さな子供数人が走りながらすり抜けて行った。
何も言わない、言うことができない私を見て彼が何を思ったのかは分からない。
結局口を開くことなく踵を返し歩き出したリョーマ君の後ろを、私は俯きながら付いて行くことしかできなかった。
「送ってくれてありがとう、リョーマ君」
口数少ないまま足を止めた場所は、私の家のすぐ近くだ。
仲直りをした頃から、彼はこうして家の近くまで送ってくれるようになった。
リョーマ君が遠回りになってしまうからと最初は断っていたものの、押しに根負けしてしまいお言葉に甘えることにしたのだ。
「・・・じゃ、また」
「うん、・・・また、明日ね」
なんとなく面と向かって顔を合わせられないまま、歩き出したリョーマ君に手を振りその背中を見送る。
ちらりと見えた横顔からは、彼の喜怒哀楽は伺えない。
もし今、この場で想いを伝えたら一体どんな答えがくるのだろう。
声をかけて呼び止めて彼が振り向いたら、ああ、きっと私は何も言うことができないだろうな。
振り終えた手が微かに震えていて、押え込むように強く強くこぶしを握る。
飛び出してきそうな言葉は喉元で引っかかったままだ。
出てきてよ、お願い。素のまま飾らず思いだけを、彼にぶつけてしまいたい。
私の心の奥底で、本当はそんなふうに願っているのだ。
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