黒くツヤのある彼の髪は、風に吹かれると軽やかにさらさらと舞う。
テニスでボールを追う時も、それは帽子の下で優しく風を絡ませ揺れている。

とても手触りのいいその髪が大好きなのは、きっとリョーマ君だからというのも理由の一つ。



散 発 日 和



「ほあら〜」

日曜日の午後、久しぶりに越前家に足を踏み入れた私を一番に出迎えてくれたのはこの家のアイドル猫だった。
玄関先でカルピンの頭を撫でお腹をくすぐっていると、二階からリョーマ君が下りてきたので手土産のクッキーを渡す。

「お邪魔します。お家の人は?」
「出かけてる」

早く部屋行くよ、とじゃれている私達を尻目に、リョーマ君はさり気なく私の荷物を持ってさっさと階段を上がって行ってしまった。
ぶっきらぼうだけれど、彼のそういう優しさが私は大好きだ。

靴を脱ぎ揃えスリッパに足を通すと、カルピンを抱き上げその小さな耳に耳打ちをする。

「いい飼い主さんだよね、カルピン?」
「ほあら〜〜」

カルピンも私も幸せ者だ。
にっこり笑いかけて、私達はリョーマ君の待つ部屋へと向かった。



以前来た時と同じように、繋がれたテレビゲームのコントローラーは床に投げ出されている。
あまりマメに片付けるタイプではないのか、机の上にはテニス雑誌が何冊も重ねられていた。
足の踏み場も無いわけではない、でもきちっと整理されているわけでもないこの部屋が私は好きだ。

学校生活の中だけでは分からない、彼の生活感を感じることができる。

二人でベッドに腰掛けて、持ってきた紅茶クッキーの包みを開けた。
私自身、料理はあまり得意ではないけれど久しぶりに彼の家にお邪魔するから、お母さんに手伝ってもらったのだ。

カルピンはクッキーには興味がないようで、足元で丸まって眠っている。
サクサクと食べ進めるリョーマ君に感想を聞くと、少しの間の後こう答えた。

「まあまあだね」
「まあまあなの?」
「ウソ、かなりうまい」

ニヤッと笑った顔は、いつも意地悪なことを言う瞳だ。

「もー、リョーマ君のばかっ」
「ごめんって。でも、本当にうまいよ」

その答えにホッとして、お母さんにも手伝ってもらったんだよと素直に伝えた。

「やっぱり?」
「またそんな意地悪言うーっ」

ポカポカ軽く叩く私の腕を、リョーマ君は笑いながら優しく掴んだ。
その時ふと彼が両目をつぶり首を振ったので、今になって私は小さな変化に気付いた。

以前と比べ、髪がとても伸びている。
前髪は目にかかり邪魔そうだし、襟足も結構長い。
そのことを伝えると彼は、あぁと言って髪をつまんだ。

「最近切ってなかったからね。面倒臭くてさ」
「お母さんか菜々子さんに切ってもらえば?」
「やだよ。なんか恥ずかしいじゃん」

相手が女の人だからかだろうか、リョーマ君は却下した。

「じゃあ南次郎さんは?」
「絶対やだ。バリカンで坊主にされそう」

即答だったけれど、リョーマ君の坊主姿に一瞬興味が湧いたのは内緒だ。
だけどこのまま伸ばし続ける訳にもいかないから、やっぱり美容院だねと言うと彼は何を思ったのか突拍子もないことを言い出した。

、俺の髪切ってよ」
「え!?」
「そこまで不器用じゃないし、ゆっくりやればできるでしょ」

不器用じゃないとはいえ器用でもない。
自分の前髪ぐらいならまだしも、生まれてこの方、人の髪の毛など切ったことはない。

絶対変になるよと拒否しても、何かのスイッチが入ったのか彼は聞く耳持たず。
パッツンにしなければいいよと言って立ち上がった。

「で、でもっ」
「じゃ、用意してくるから。中庭で待ってて」

有無を言わさずリョーマ君はさっさと部屋を出て行ってしまった。
いつの間にか減っている紅茶クッキーをかじりながら、私は必死に、美容師さんの切り方を思い出そうと頭を巡らせていた。




暫くして中庭に移動すると、すでにリョーマ君は小さい椅子を運びだしその上に座っていた。
上半身裸で首に軽くタオルを巻きつけているその姿は、さすがスポーツをしているだけあって無駄のない筋肉が綺麗についている。

玄関から持ってきた自分の靴を履き庭に下りた私は、あまり目にすることのない彼の体に妙な緊張が押し寄せなかなか近づくことができない。
立ち往生する私に気付いた彼が、早く来いというように首を傾げた。

あまり見ないようにしながら傍まで来ると、ニヤリと笑ったリョーマ君が私の顔を覗き込んだ。

「何真っ赤になってんの?

緊張を悟られ何も言えず黙っていると、散髪用のハサミを手渡される。

「そんなに見たいなら、いつでも見せて・・・」
「もう!パッツンにしちゃうよ!?」

からかいモードに突入したリョーマ君にハサミをチラつかせ黙らせると、彼の後ろに回り大きく息を吐いてそっと髪を手にした。

「じゃ・・・切るからね」

襟足の髪を人差し指と中指で挟んで、縦に持ち替えた刃先を滑り込ませるとゆっくり手に力を込めた。
ちょき、ととても小さな音がして、綺麗な髪が地面へと静かに落ちて行く。
それを見届けて、再びハサミを入れた。

やはり初めての経験、おまけに人様の髪の毛ということもあり緊張してしまうけれど、集中して焦らず
バランスを見ながら切っていけばなんとかなるかもしれない。

二・三回切る度に色々な角度から見て変なところがないか確認して、襟足と耳の後ろを切り終えた。
足元に落ちた髪は、風に吹かれると風景にとけてあっという間に見えなくなる。

私の緊張が伝わっているのか、リョーマ君は黙ったまま大人しくじっとしている。
いつの間にかカルピンも庭に来ていて、少し離れたところで私達を見つめていた。

一旦手を休め、彼に確認してもらおうと地面に置いてある二枚の鏡を拾い上げる。
一枚はリョーマ君に渡し、もう一枚を持った私が少し横にずれて襟足部分を鏡に映し出した。

「どうかな?うまく切れてる?」
「いいんじゃない?うまくできてるよ」

その言葉にホッとしたけれど、作業はまだ終わっていない。
次は最も重要と言える前髪があるのだ。
鏡を元に戻し、再び気を引き締めてハサミを握りしめ、リョーマ君の前に立った。
頭のてっぺんが良く見える。

「じゃ、次は前髪ね」
「なんか俺が小さくなったみたいでヤダ」

私の身長の方が一cm高いことを、彼はよく気にする。
いいからとなだめて目を瞑ってもらい、大きな瞳が閉じられたのを確認すると前髪を掬った。

彼の髪はとても綺麗だ。
日に当たると艶が一層際立ち、指通りも触り心地もいい。
急にふわりと漂ってきたシャンプーの香りに、今更ながらドキドキしてしまった。

散髪行為への意識が少し削がれ、さっきまでは聞こえていなかった外の声が微かに耳を掠めるようになってきた。
鳥の声が傍を駆け抜け、近くを通る車の低い音が聞こえる。
いけない、集中しないと、そう言い聞かせて手を止め、小さく息を吐いてもう一度刃先を入れた。

徐々に慣れ始めた頃、ようやく私は髪を整えることができた。

ハサミを下ろし彼の顔を覗くと、なんと彼は気持ちよさそうにうとうとしている。
あどけない寝顔が珍しくてもうちょっと見ていたいけれど、上半身裸のリョーマ君が風邪をひいてしまうかもしれない。
そっと名前を呼んで軽く肩を揺らすと、すぐに目を開けてくれた。

「・・・眠っ」
「切り終わったよ〜」

鏡を目の前に持ってくると、眠そうに目をこすりながら鏡を覗き込む。
うん、と頷いてくれたので、変なところはないようだ。良かった。

「長さどうかな?」
「これくらいでいいよ。少し軽くなった気がする」
「ふふっ、お疲れさま」

なんだか大仕事を終えた気分のようで清々しい。
首に巻いてあるタオルを取ろうと近づくと、急に腕を引っ張られその勢いのままキスをされてしまった。
座っているリョーマ君に私が覆いかぶさっているので、傍から見たら私からしているように見えるかもしれない。

というか、ここは外なのだ。
慌てて離れようとしても後の祭り、いつの間にか頭を抑えられ顔を上げることもできず、結局彼が満足するまで
長いキスが続いた。

ようやく放してくれた頃には、私の腰は少し抜け始めていた。
目の前にいる人物は余裕の笑みで、いけしゃあしゃあと口を開く。

「お礼だよ。ありがと、
「・・・ばかっ」

言葉足らずの反撃は、私にとっての精一杯。
もちろん彼に効くことはないのだけれど。



「やっぱ、髪伸ばしといてよかった」

そう呟いた彼の言葉を私が理解したのは、もう少し後のお話。